箕面有馬電気鉄道の創立

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阪鶴鉄道とならんで、宝塚にとってもう一方の重要な交通機関は阪急電車の開通である。この阪急電車は、阪鶴鉄道が国有化されたあと、同鉄道がすでにその支線として認可されていた免許路線(大阪―池田間)を、企業主体をかえて復活したもので、箕面有馬電気鉄道として発足した。現在の阪急電鉄宝塚線がそれである。
 箕面有馬電気鉄道は、阪鶴鉄道の経営者の田艇吉・土居通夫・池田貫兵衛・野田卯太郎らが、前述の阪鶴鉄道の支線として免許を得ていた大阪―池田間の路線を生かして、箕面―池田―宝塚―有馬間、および宝塚―西宮間の路線計画をたて、明治三十九年一月十五日、資本金五〇万円の電気鉄道敷設を申請したのが始まりである。当初は箕面動物園の開園にみられるように、本来的には遊覧用交通機関として発案された。しかし時あたかも日露戦争直後の好況期のこととて、一株二〇円の権利を呼ぶ人気に、株の割当てがもめて手間取り、一般公募を見合せて旧阪鶴鉄道株主に割定めるという状況であった。
 しかしそれも束の間、すぐに戦後恐慌が襲来した。四十年一月十八日株式市場の暴落につづく経済沈滞のため、株主たちは払込みを躊躇(ちゅうちょ)し、失権株が続出して一一万株の約半数は引受未済という惨憺(さんたん)たる状態で、会社設立は一時頓挫(とんざ)せざるをえなかった。このため起業を投出そうとした阪鶴鉄道系発起人からそれを譲り受けたのが、三井銀行から阪鶴鉄道監査役に就任した小林一三であった。

図8 創業時の箕面有馬電気軌道路線図