線路敷設工事から営業開始へ

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創立の事務一切を完了して会社の経営陣容もととのったので、明治四十一年八月五日、大阪―池田間、および箕面支線(池田―箕面間)と池田―宝塚間の二八・九キロメートルの軌道敷設工事の施行認可申請をし、同年十月二十二日付をもって認可された。同年の第二回営業報告書の「業務ノ概況」では、四十一年四月一日より九月三十日にいたる半期の会社業務について、「主トシテ最モ利益アル第一期線大阪池田宝塚間及箕面支線十八哩(マイル)ノ敷設達成ノ方針ヲ以テ極力社務ノ進捗ヲ図リ既ニ線路ノ実測調査ヲ終了シ用地買収ノ準備中ニ属ス」と述べている。
 しかし明治四十年といえば、日露戦争後の反動恐慌のときにあたり、工事の進捗とともに、資金の調達は非常な困難に直面した。最初の払込みにおいてすでに二万三二三一株の失権株を出すという状態であったが、第二回の払込みを徴収することはきわめてむずかしい事情にあった。そこで三井物産の仲介によって融資をうけ、ようやくこれを充当して支弁するという始末であった。
 そのため明治四十一年の秋ごろには種々の風評が流れ、ことにその計画が箕面・宝塚・有馬を主眼とする単なる「遊覧電鉄」にすぎないという皮相な観点から、会社そのものの成立に対してすら疑念をいだくものが多かった。したがってこのまま風評を放置しておけば、会社存立の危機をも招来しかねないというので、同年十月に「最も有望な電車」と題する一種の弁明書ともいうべきパンフレットを発行して、これを株主その他の関係者に配布したのである。これによってのちに同社が沿線地域開発にも重点をおき、たんなる遊覧電車ではなくて、「電車と住宅」の二本柱とする新しい電鉄経営の先例をつけたのである。
 このような努力にもかかわらず依然として事情は好転せず、第二回の払込みを徴収しなければ、工事の完成はおぼつかない窮状に追いこまれていた。そこで当時三井物産の関係から阪鶴鉄道の監査役をしていた小林一三は、せっかく具体化した計画をここで放棄するに忍びず、資金調達のために東奔西走した。小林の友人たちにはかって甲州財閥の人々その他を追加発起人として加えるとともに、さらに当時北浜銀行の頭取で電鉄事業にも関心の深かった岩下清周の援助をあおぎ、北浜銀行から四万数千株の引受けの承諾をえて、ようやくその突破口を見出したのである。そして四十一年十月に岩下は社長として、取締役の小林とともに直接経営にあたったのである。

写真86 箕有電鉄試乗券
(天理大学附属天理参考館提供)


 このようにして、箕有電鉄は四十二年四月に本社を豊能郡池田町本町に移し、会社設立より二年半後の四十三年三月に、大阪―宝塚間(宝塚線)と石橋―箕面間(箕面支線)の二路線の営業を開始した。同時に先述の「最も有望なる電車」に示したように、沿線開発にも重点をおき、またその社名が示すように、レクリエーションセンターとして箕面・宝塚に力をそそぎ、さらに有馬温泉への進出も計画した。