明治末年から大正期にかけて、阪神間は急速な発展をした。いまこれを人口からみると、明治三十八年からの一〇年間で大阪市は一〇六万八七七一人から一四二万三〇五七人で三三・一%、神戸市は三二万二一三一人から四五万七一一六人で四二%の増加率を示しているのに対し、沿道町村は一七万三九八二人から二七万二七四三人へと実に五六・八%とその発展ぶりを如実に示している。
大正期におけるこのような阪神間の人口膨脹にこたえ、箕面有馬電鉄においても、その経営方針をようやく大阪―神戸間の開発に転じて、阪神電車と競合状態にはいることになった。西宮―神戸間には当時灘循環鉄道が電車敷設権をもっていたので、箕面有馬電鉄は同社と提携し、すでに同社が企画していた門戸厄神―十三間の計画路線と連絡して、大阪―神戸間に直通快速電車線の敷設を企画した。ところがたまたま第一次世界大戦前の不況期にあたり、一方で北浜銀行の破綻(はたん)などがあって、灘循環電気軌道株式会社は同一金融関係から、この権利を阪神電車に譲与しなければならない情勢となった。もしこの権利が阪神電車側に渡ってしまうと、阪急電車の大阪―神戸間の進出計画が水の泡となってしまうので、阪急電車側では直ちに阪神電車と交渉した。その結果大正五年(一九一六)四月二十八日の臨時株主総会において、灘循環電気軌道の特許路線に関するいっさいの権利と同社の資産を一四万八〇〇〇円余で譲り受ける契約書を承認したのである。
しかしながら、当時箕面有馬電気軌道の配当はわずか六分五厘で会社経営そのものがかなりの苦境にたっていたので、灘循環線を買収はしたものの、路線権利の問題、資金面、用地買収など幾多の困難に直面した。その困難を克服して、大阪―神戸間の山手最短距離を走る電車路線の工事にとりかかることになった。それと同時に大正七年二月四日、社名をこれまでの箕面有馬電気軌道から、阪神急行電鉄株式会社と改め、従来の宝塚・箕面両線を支線とし、阪神間の直通線を本線とした。官線ならびに阪神電鉄に対してスピードで勝負しなければならないこの阪神急行電鉄という社名は、それにふさわしい社名であったといえよう。
阪急電車は年来の目的を貫徹するため、積極的にこの計画の完成に努力した。その結果、ついに大正九年七月十六日、大阪・神戸を結ぶ神戸線三〇・三キロメートルが開通し、営業を開始することになった。なお同時に伊丹―塚口間の伊丹支線二・九キロメートルも開通した。阪神間は従来阪神電鉄の急行車で五六分を要したが、阪神急行電鉄はこれを四二分に短縮した。開通時には八分ごとの発車であった。