奥長尾山保護組合

201 ~ 202 / 620ページ
水と草とは農業にとって欠くことのできないものであった。山は草のみならず屋根を葺(ふ)く萱(かや)や材木の供給源であったが、平野部のむらにはそれがないことが多かった。武庫川と猪名川の間の扇状地にあるむらの多くは、遠くにある山に頼るほかなかった。長尾山の奥山はこれらのむらの入会山であったのである。文禄三年(一五九四)の太閤検地および延宝年間(一六七三~八〇)の検地以降の事情については第二巻第四章などにくわしい。
 明治期においても、多くのむらにとって長尾山はたいせつな山であった。明治三十年一月その奥山に入会う切畑むらほか四八のむらは、山林保護を目的として組合をつくり、「奥長尾山保護組合規約」を定めた。この組合はむら単位の組合であるが、そのむらを構成する単位についてはつぎのように定めている。「本約ニ於テ共有権アル人民トハ其町村ニ本籍ヲ定ムル戸主トス故ニ組合外ノ町村ニ転籍スルとき(とき)ハ共有権ヲ失ヒ又組合外ノ町村ヨリ本約組合内町村ヘ入籍スルときハ共有権ヲ得随テ規約確守スル義務ヲ生スルモノトス」と。規則は七章四二条からなり、組合町村総代が記名調印している。組合の委員および基本的機能について、「本約組合町村ハ委員長壱人委員六人ヲ置キ山林保護一切ノ任ヲ負担スルモノトス」と規定している。この組合が成立して二年余の後、長尾山事件が生じた。

写真88 甲山上空からみた長尾山