事件は明治三十二年十月二十四日、川辺郡西谷村のうち切畑むらが原告となり、弁護士鳩山和夫・上原鹿造・平岡萬次郎を訴訟代理人として、西谷村のうち切畑村字長尾山一九番の山林六二八町七反五畝と、その他一四筆六二三町九反六畝二八歩の山林および二カ所合計七反九畝四歩の溜池の所有権をめぐり、五二のむらを被告として明治三十七年十二月までの五年余の間争った訴訟事件である。
被告は川西村のうち小戸・火打・萩原・出在家・小花・栄根・寺畑・加茂・久代、長尾村のうち平井・山本・荻野・荒牧・鴻池・中筋・中山寺、小浜村のうち小浜・米谷・川面・安倉、稲野村のうち池尻・新田中野・寺本・昆陽・千僧・野間・南野・御願塚・山田、園田村のうち猪名寺、神津村のうち森本・下河原・中村・西桑津・東桑津、伊丹町のうち北・辻・北河原・大鹿・北小路・中小路・昆陽口・植松・野田、多田村のうち満願寺、武庫村のうち西昆陽・時友・友行、良元村のうち蔵人・伊孑志、北豊嶋村のうち神田、池田町のうち宇保のむらむらである。
これらの法律上代理人は各町村長であり、それらのうち三二のむらの代理人は弁護士角谷格次郎、九のむらの代理人は川西村長岩田彦兵衛、七のむらの代理人は長尾村長阪上丈右衛門、四のむらの代理人は小浜村長田川善近であった。係争中の三十六年四月二十二日、原告は被告のうち北小路・中小路・昆陽口・植松・野田の五つのむらに対する訴訟は取下げた。したがって被告は四七のむらとなった。
問題となった長尾山の山林は、明治十一年山野官民有区分のさい民有となり、その奥山一九番の地は原告と被告の共有となったが、その他の口山六二三町九反六畝余の土地は、明治十六年各むら総代ならびに肝入り立会の上境界を確定し、小戸・火打・加茂・平井・山本・中筋・中山寺・満願寺の各むらの所有と、寺畑・栄根、および平井・山本のそれぞれ共有となっていた。