判決

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明治三十五年中は二回開廷され、三十六年四月二十九日第一審の判決が下された。その結果はつぎのようなものであった。(一)長尾山奥山は延宝七年の各むら検地帳によってみるに、原告・被告むらむらの入会山であった。「切畑村領長尾山」の「領トハ疆域(きよういき)ヲ謂ヒ切畑村ノ地内ニ存ルコトヲ意味スルニ外ナラサレハ之ヲ以テ原告一村ノ所有地ナリト謂フコトヲ得ス」と。(二)原告は「前里村々ヨリ山手銀出シ草柴苅申候」との文詞を、原告が被告らより入込料すなわち小作賃を収取してきた証拠というが、山手銀は年貢であって、地元のむらである原告が官府に納入の取次をしたまでのことであり、原告が長尾山を独占所有したものではない。(三)原告は長尾山に一村限りの所有地はないと主張するが、延宝七年十二月一日付永井市正内安井作右衛門の切畑村に対する「覚」および同六年十一月永井市正様御内御検地奉行御中に対する山子の村々の「差上申一札之事」によれば、小部・火打・栄根・満願寺・山本(大田摂津守領)・山本(板倉市正領)・小池中筋・加茂・川面・米谷の各村はいずれも内山を有し、山手銀のうちには内山の貢税をも含んでいることを記している。内山あるいは内林とは、被告のいう口山であって、原告が長尾山には一村限りの所有地がないというのは当を得ていない。
 このような理由によって原告の主張は成立しないという判決であった。
 原告はこれを不満として、三十六年六月四日大阪控訴院に上訴したのであるが、三十七年六月八日棄却となった。原告はさらに上告したが、これも同年十二月十三日上告棄却となり、この事件は終わったのである。