さて、上層の土地所有者は、明治初年には貸付地をもっていても、なお自作地の比率の方が大きく、奉公人や日雇を雇入れて富農的経営をおこなっていた。ところが明治十年からのインフレで奉公人の賃金が上昇してきた。購入肥料の価格も上昇した。地租はすでに地価の百分の二・五に下っていた。十五年ころには自作地経営よりも小作地として貸出す方が有利になってきたので、自作地と小作地の比率は逆転して後者が大となっていった。地主は小作料を現物で取り、それを高い米価で売ることと、良質の米を多量に取得することに関心をもつようになった。このようにして物納小作料を主たる収入源とする寄生地主が明治十五年以降成長し、その手に資金が蓄積されていったのである。
武庫郡では、明治三十年代に地主は小作地から物納小作料を得て、山林や畑に資金を投じ、果樹園経営をおこなうことが盛んとなった。これは大阪と神戸の都市人口が増加し、阪神間にも非農業人口が増大して食糧に対する需要がふえ、市場拡大の見込みが開けたからである。このような市場拡大に対応して、商業的農業が成長するが、それは地主によるものと、農民によるものとがあった。後者によるものは主として蔬菜(そさい)栽培であり、前者によるものが、果樹栽培であった。