とりわけ隣村甲東村のうち上大市むらにある甲東園は付近の村々に大きな影響を与えたと思われる。北神貢の調査によれば、この農園は、大阪の芝川又右衛門が主人であったが、彼は明治二十九年三月、一坪五銭を支出して大市山を開拓した。大阪中河内の岡本市太郎が設計し、農商務省農事試験場畿内支場長岡田鴻三郎が指導したという。苗木は長尾村の丸橋から取寄せ、最初は約五町歩の地に河内堅下の和種ぶどうおよび夏橙・桃ならびに栂(とが)・槇(まき)・楓・桜・山茶花などの観賞樹を定植した。三十年には枇杷(びわ)を植え、三十二年には三町歩を開墾し、梨・りんご・すももを定植し、三十四年にはさらに一町歩を開墾して桃を植えた。三十六年には開拓した一町歩に洋種の梨・ぶどう・ワシントンネーブル・和種梨を植え、総面積一〇町歩の果樹園となった。
三十四年にはガラス張り九坪の炭火暖房の温室を二〇〇円余で建て、また三十七年には一〇〇円を投じて二四坪の煙管による換気装置を備えた藁葺土造の貯蔵庫を設けた。園内に盆栽・花卉鉢植を陳列し、牛・鶏・鵞鳥(がちょう)・家鴨(あひる)および密蜂を飼養育し、農場の周囲や圃場の境には銀ばら・からたち・茶樹などを植え、間作として麦・大豆・除虫菊を栽培した。その経営は、管理者をおき五人の常雇農夫と日給男二五銭、女一七銭の臨時雇を監督させ、肥料は硫曹・過燐酸石灰・鰊粕・油粕・馬尿等を施した。三十一年から収益を得たものは和種ぶどう・夏橙・桃であって、阪神地方が市場であった。
かつては僅か二石(三十七年の米価は一石約一三円であった)の小作料しか得られなかったこの一〇町歩の土地にたいして、創業費三〇〇〇円、年々の支出額二五〇〇円、うち臨時雇日給合計二〇〇円を投ずることにより、三十六、七年には一〇〇〇円から一五〇〇円の収入をあげ、農業における将来有望な資本家的経営として注目されていたのである。阪急電鉄西宝線に駅が増設されたとき、駅名にこの名をとり甲東園と名づけた。