長尾村の園芸

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長尾村の花卉園芸は、近世初頭にその起源をもつと伝えられる。接木を得意とする伝統は、大正十二年に建てられた山本むらの「木接太夫彰徳碑」に象徴されている。安永八年(一七七九)山本村の植木苗仕立反別は六町九反余とあり、山本と豊島郡細河の業者は、大阪の植木花卉問屋仲間五二人が植木屋株をつくって天満市場を独占しようとする動きに対して、大阪西寺町の植木業者とともにこれに反対し、販売権を守った歴史をもっている。しかし文化五年(一八〇八)の山本の業者は三六戸にすぎなかったという。
 明治になってからはその六年に、当時の兵庫県令神田孝平が南米から初めてユーカリ樹を輸入させ、その他舶来品二三種の試植を命じたり、また一〇余種のバラの栽植をすすめて山本村の園芸を奨励した。明治九年(一八七六)に姫路植物園が設立され、その翌年には県立模範農場や神戸植物試験場が開かれ、県下の園芸産地を指導したが、長尾地区の業者は新し栽培技術を習得し、また通信販売による販路の開拓に努力した。明治初期の顧客は、政治・経済上の上層特権階級であって、ボタン・サツキ・ヒラド・松などの庭木と造園の需要が多く、それらの生産が盛んであったが、そのかたわら観賞用植物の生産も始めていた。明治十年ごろから数年間は東洋ランやオモト・盆栽類が流行したが、十六年ごろにはオモトの価格が暴落し経営困難の農家が生じたという。明治二十年にはオモトの価格も上昇したが、二十年代を特徴づけるものは、アヅマギク・エゾギク・小菊・シャクヤク・カザグルマ・スズカケ・ケシ・アヤメ・ハナショウブ・ヒメユリ・ベニバナ・バラ等の挿花用花卉草木の栽培であり、仏花用・生花用切花の需要に応じた。ボタンは古くから山本を代表する花卉であったが、明治中期には年産五万株のうち三分の二がアメリカなどへ輸出されるようになっていた。
 明治三十六年三月、はじめて大阪で第五回内国勧業博覧会が開かれることになったので、山本村の園芸家たちは村の中に牡丹(ぼたん)・芍薬(しゃくやく)・菖蒲(しょうぶ)・百合等の和洋各種の花卉や盆栽を展示、また庭園をつくり、博覧会来場者の来遊を願った。この時阪鶴鉄道は中山寺駅・池田駅の中間に臨時駅「花園停車場」を設けその便をはかった。
 明治四十年ごろはぶどう・桃・りんご・長十郎梨苗や桑苗などの売行きが良好であった。明治四年の新田中野村は近隣一〇カ村へ出作地を有し、植木商売を営む農家が一七戸存在したことをすでに第一章第二節で述べた。これによると明治初期は花卉園芸の生産・販売が山本村を中心に付近の村々にひろがり、明治中・後期はその輪がひろがっていたものと思われる。
 大正期に入って園芸は副業的なものから、専業的な経営形態をとるようになってきた。川辺郡誌によれば、大正二年における川辺郡内の園芸を職業とする戸数一五二戸、苗木盆栽の樹数九七四四万一五六〇本、その価額五四万八八八七円にのぼっている。

写真102 国鉄中山寺駅植木出荷風景
「川辺郡園芸組合報」より