大原野は、そのうちに一〇の自然村を含んでいるが、その総戸数は、文久三年(一八六三)一七二戸、明治十四年(一八八一)一九〇戸、昭和十年(一九三五)約一七〇戸で、田地約九〇町歩、平均一戸当り五反三畝たらず、農業だけではとうてい生活ができなかったので、余業として箕を作っていた。
まず明治七年から十年までの資料でみることにしよう。「箕買入覚帳、明治九年五月二三日大原野集議所」によると、村の集議所が五九人の生産者から合計七五六〇枚の箕を買入れ、大箕・斗箕・中箕・小箕、あるいは山河内・切河内・能印などの箕の種類別枚数とその価額を貫文で記帳しているが、まれに金額を示して、一、山河内百七拾枚、此代六拾六貫三百文、此金五円十七銭九厘と記している。この事例によれば一枚の買入価格は三銭四毛六強である。商人へ小むらから直接に売却する場合について「箕売払日記、明治十年、地下方」をみると、山河内の売値は一枚につき三銭ないし三銭六厘である。品質により価格に高低があったが、箕の種類につきそれらのおよその売払価格をみると、小箕約二銭二厘、中箕約二銭五厘、大箕約四銭五厘、切河内約三銭、山河内約三銭三厘、能印約四銭四厘であった。
「商人箕売附勘定帳、明治拾年第一月廿三日、地下方」によると、箕合計三三八一枚の内訳と箕売附総計はつぎのとおりである。
一大箕 一二五枚 但一駄ニ付 七二枚 此駄数 一、一駄七分三厘六毛一
一河内箕 一二六七枚 但一駄ニ付一二〇枚 此駄数 一、一〇駄五分五厘八毛三
一中箕 一六二七枚 但一駄ニ付一六〇枚 此駄数 一、一〇駄一分六厘八毛七五
一小箕 三六二枚 但一駄ニ付二〇〇枚 此駄数 一、一駄八分一厘
右駄数総計 合二四駄二分七厘三毛一五
此代銭 一〇六一〆六五〇文
此金 八二円九四銭一厘
此利金 一四円九二銭九厘
〆金 九七円八七銭
この代金は四回に分けて支払われ、二月九日に元利合計の支払いを受けている。
以上によってみると箕の販売は、自然村から村の集議所へ売る場合と、商人に売る場合と、箕職人が商人となって得意先に売る場合とがあったようである。そしていずれも箕税を大原野村に納めた。「箕税金集メ扣帳(ひかえちよう)、明治七年戌十一月、北東村」と「箕駄数贅(税)金記、明治七年戌十二月十七日、南東邑(むら)」によれば、箕一枚につき箕税、大箕は三厘四毛七二、斗箕は二厘〇毛八八、中箕は一厘五毛六、小箕は一厘二毛五を納めている。
「箕税取定帳、明治九年子第九月五日、大原野村」によれば、大原野村のうち久保むら以下九つのむらの納税商人数と税額は表52のとおりであり、その合計額についてはこの帳面の最初に、六六円〇八銭「右者商人持得意税金也但一ケ年分也」と記されている。これは箕職人兼商人の場合である。つづいて、
「一金拾円五拾銭 是ハ丹州笹山在入組場税 右落札主 下村 中井林蔵
一金弐円 右者当国尼ケ崎在入組場税 右落札主 南村 辰家平左衛門
右入札之場所弐ケ所共職人商人共罷出度ト申出候ハハ其仲間相談之上何時ヨリモ商内可被致候約定依而如件」
とある。これらは丹波篠山と摂津尼崎を市場とする商人とみてよいであろう。明治の初期には大原野村が弱小な箕生産者を保護する目的で、製品を自然村単位で集めさせ、それを集議所に集中することによって、価格や販路の調整をすすめようとしていたものと思われる。
表52 明治9年大原野村箕税
む ら | 商人数 | 税 金 |
---|---|---|
人 | 円 | |
久 保 | 2 | 4.20 |
南 | 2 | 2.00 |
西 中 | 6 | 10.40 |
北 | 10 | 14.80 |
南 東 | 12 | 10.28 |
北 東 | 8 | 9.55 |
東 中 | 2 | 6.75 |
上 | 5 | 2.75 |
下 | 8 | 5.35 |
合 計 | 55 | 66.08 |
〔注〕同年「箕税取定帳」による。入野むらの記載がない
明治十年代の初期は農村が好況でもあり、箕の販売市場はかなり拡大したと思われる。年生産高は明治九年の約一万~二万枚から、三十八年には約七万枚に増加した。これだけの生産の拡大が可能であったのは、付近のむらの人達を下請職人として半ば加工させ、大原野の箕職工が製品の仕上げをするという方法がとられたことによる。