箕の従来の販売方法はすでに述べたが、製造人が作った箕をみずから携えて春秋二期に得意先を求めて商品を置いて帰り、後に集金してまわるという方法が、なお主な方法であったと思われる。明治初期の集議所へ集中させる方式をいっそう進めて組合としたものであろう。不換紙幣整理による不況がその極に達した明治十七・十八年には、売掛金の回収不能や得意先の争奪、あるいは値崩れなどによってたいへん困難な状況に陥ったものであろうか。このようなことがふたたびないように職工や製造人の弱い立場を組合の結成によって強化し、生産と販売の分業化を促し、製造技術上の指導をもはかったものであろう。
しかしながら、このような販売統制的色彩の濃い、また農村の協同体的構造を基盤とする規則は、明治二十年九月八日付で県知事より第二〇条の削除を条件として認められた。三十年十月十四日には条文になお不合理と組合員の自由を傷つけるおそれのある規定があり、また組合は営利の事業をなすことができないので、条文の改定を要すと其筋の注意により川辺郡役所から照会があった。これは箕営業組合の営業が適当でないということと、組合が事実上営業行為をしていることに対する批判ではなかったかと思われる。
すなわち県知事に対する三十九年末の報告では、「本組合ハ……職工者ノ便宜ヲ図リ組合内東・中・西等ノ三ケ所ニ於テ製造物品買入者ヲ設ケ之ニ買取ラシメ組合商業者並ニ各国所々ノ商店等ヘ販売ス組合商業者ハ買受ケシ物品ヲ各自得意村ニ限リ春秋二期ニ於テ小売ヲナス者トス」と述べているが、規則第二三条で商業組合員は五円、職工組合員は二円を信認金として組合に出し、それ以外に第二四条では組合職工は箕一〇〇枚につき一円ずつ、第二五条では組合商業人は一カ年間に売さばいた物品壱駄(三二貫)につき三銭ずつ組合費用として出さなければならなかった。また三十八年一月の組合費用報告で、商業者よりの収入八七円と職工者よりの収入三三円合計一二〇円を積立て三名の買入者へ利付を以て貸付け、三十九年一月の報告では一年間に一四円四〇銭と七円九〇銭合計二二円三〇銭の利子収入を得ている。これらの組合の行為は実質的な営業行為とみられていたのではないだろうか。明治三十八年以降の箕生産・販売高は表53のとおりであり、盛衰はあるが、ほぼ同じ規模で推移している。
表53 箕生産・販売高
年 次 | 箕製造高 | 前年度残 | 合 計 | 売捌高 | 価 額 | 残量 | 組合員数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
枚 | 枚 | 枚 | 枚 | 円 | 枚 | 人 | |
明治38年 | 72,200 | ?3,300 | 75,500 | 71,300 | 6,770 | 4,200 | |
43 | 69,800 | 2,200 | 72,000 | 68,200 | 8,380 | 3,800 | 110 |
大正4 | 93,500 | 5,400 | 98,900 | 91,200 | 11,500 | 7,700 | 100 |
9 | 73,300 | 900 | 74,200 | 73,200 | 19,064 | 1,000 | 98 |
14 | 60,000 | 500 | 60,500 | 55,000 | 16,500 | ?5,500 | 114 |
昭和5 | 70,000 | 500 | 70,500 | 47,500 | 10,925 | 23,000 | 114 |
6 | 60,000 | 23,000 | 83,000 | 55,000 | 14,000 | 28,000 | 114 |
7 | 30,000 | 28,000 | 58,000 | 55,000 | 10,000 | 3,000 | 114 |
8 | 35,000 | 3,000 | 38,000 | 37,500 | 7,000 | 500 | 114 |
9 | 60,000 | 500 | 60,500 | 60,200 | 12,040 | 300 | 114 |
10 | 73,000 | 500 | 73,500 | 71,000 | 17,750 | 2,500 | 114 |
〔注〕?は記録にはないが推定残量
昭和のことになるが、四年には箕の平均単価一枚三〇銭であったものが、五年には経済界不振のため二三銭に低下し残量二万三〇〇〇枚、六年には二五銭で残量二万八〇〇〇枚、七年は一八銭と最低になった。不況のためやむなく休業して残量を減じたが、なお三〇〇〇枚が残った。八年は一九銭であったので、休業を続けた。昭和四年五月現在で三八六円の積立金があったが、これは不況の間の赤字補填に使用した。昭和九年には生産をもとに復し、十一年にはかなり回復した。この年の製品の仕向地と数量はつぎのとおりである。県内一万五〇〇〇枚、大阪三万枚、京都一万八七〇〇枚、その他(岡山・福岡・長崎・朝鮮)一万一三〇〇枚。
昭和十年(一九三五)七月十二日兵庫県経済部長より、五月三十日附兵商第五四八三号通牒によって箕営業組合を至急解散するよう督促があったが、七月十八日に大原野箕営業組合長龍見隆一は、県経済部長宛に歎願書を出した。本組合員は現在一二四名で、このうち専業者と副業者とは半々である。万一組合が解散するならば忽ち破産続出して、生活難の者が多数生じ、人心悪化を招き西谷村全般に大きな影響を与えることでもあるから、「何卒深甚ノ御寛意ヲ以テ組合継続被下度此段歎願」するというものであった。帳簿は十二年で終わっている。
なお明治の初期と思われるが、西宮神社の初祭十日戎(えびす)の時に売られる福箕の生産がはじまった。島田小太郎ら三人の考案になるものである。実用品の箕だけでは販売量も限られているので、大量に売れるものはないかと考え、お多福の面をつけた福箕をつくり売ったところ、これが大いに売れた。現在は三代目・四代目の人たち約五〇人がこの生産を続け、戎・大黒・お多福の土面は島田秀治・小南喜三郎らが作っている。佐曽利むらでは笊籬(いかき)が作られていたというが、資料がなくて現在のところわからない。