林遠里の改良米作法は遠里農法として有名であり、近代農学と対立するものであったが、明治二十二年以降の第四期にいたるまでは、一定の役割を果した。明治二十二年十二月十五日、川辺郡私立勧業会第二回報告が刊行されたが、このなかに、「老農林遠里翁ノ稲作改良法ヲ本年初テ実験セシニ壱反歩ノ種籾(もみ)従前ノ量(従前一反歩ノ量七升、改良一反歩ノ量四升)ニ比シ三升ヲ減ズ之ヲ鴻池一村ノ稲作田反別凡五十町歩ニ積算スレバ拾五石ヲ減少スル」と鴻池むらの荒西治作の話を記している。このような遠里農法の信奉者は増加した。
しかし同報告にはまたこの農法に対する農学士岡田鴻三郎の批判もあらわれている。遠里は深耕を説くが、これは土質と季節の適否を併せ考える必要があるという主旨である。
遠里は天保二年(一八三一)福岡藩士の家に生まれ、早良郡重留村に転住し、明治四年稲籾の寒水浸法を発明し、翌年に土囲法による米作の増収に成功した。それからは自宅に私塾勧農舎を設立し農業技術の普及活動を始めた。しかしながら、彼の農法は稲作論争において非科学的であると非難された。彼は自説をまげなかったので、政府は、西洋農学の応用による官庁の稲作技術普及政策の妨げになるとして、彼を洋行させた。