兵庫県では米種の塩水選を明治二十八年ころ推奨し、三十年ころより始めた。最初は郡当局が推進したが明治三十四年十一月武庫郡農会が設立され、その役割をになうこととなった。武庫郡の米種子総量に対する実行率は明治四十二年に八六%、大正三年(一九一四)は六九%、同八年は五二%と順次低下し、実行戸数も八〇%から七七%、六三%と低下した。良元村は種子について約八五%内外の実行率であった。麦種塩水選は明治三十七年ころにはじまったが、武庫郡における実行率は四十二年に三四%、大正三年三六%、八年三五%で、良元村は五〇%内外であった。共同苗代は明治三十七年に良元村蔵人で最初に実施され、全郡にひろがった。正条植は武庫郡では三十五年に開始され、大正三年には稲作付総反別の三九%で、良元村は八二%内外であった。
正条植は除草機の使用を可能にしたが、良元村小林の松本卯之助はこれを発明し、大正元年専売特許をうけた。正条植が実施されている田をこの除草機で縦横に六回おし、二回の手取りをすれば、一反につき約三人の手間をはぶくことができ、一石につき一斗五升の増収をみたという。良元村の米麦の収穫高は表54のとおりである。
表54 良元村米麦収穫高
穀 種 | 明治37年 | 明治42年 | 大正3年 | 大正8年 |
---|
| 石 | 石 | 石 | 石 |
米 | 7,099 | 7,006 | 7,556 | 7,818 |
大 麦 | | | 8 | 8 |
裸 麦 | 1,046 | 1,075 | 958 | 892 |
小 麦 | 1,893 | 1,464 | 2,114 | 2,212 |
『武庫郡誌』による