良元村の共同販売

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良元村はいつのころからかわからないが、米穀の共同販売をおこなってきたという。その目的は主として米質を改良し、農事の改良進歩をはかり、ひいては経済上の利殖をはかろうとすることであった。共同倉庫を伊孑志に一カ所、小林に三カ所、蔵人に二カ所、鹿塩に一カ所、合計七カ所に設置し、各むらの産米を集め、計量係、出納係、品質審査係等をおき、産米の改良をはかった。小林についてみると、その改良米取まとめの石数は、明治四十五年一三七四石四斗、大正二年一六二〇石八斗、同三年一七一一石二斗、四年一五九一石二斗、五年一六六七石六斗、六年一二九五石六斗、六カ年平均一五四三石四斗余であった。
 米の集荷は小林の改良米役員の指揮のもとにおこなわれた。大正五年の審査員は友金茂蔵・田中国蔵・阪本岩吉、倉庫主任は田中亀太郎・木本仙太郎・石井幸吉、桝取主任は友金安蔵・田中松蔵・田中助右術門、村の桝取主任は北ノ町木本仙太郎、東ノ町西沢吉三郎、中ノ町阪本種三郎、南ノ町梅本治三郎であり、副桝取はそれぞれ藪内安蔵・岩田作右衛門・芝田留吉・岩田三右衛門であった。倉庫主任は元倉・東倉・南倉のそれぞれを担当して米穀の搬入を監督記帳し、審査員は検査をした。米の販売先を大正五年についてみると、ほとんど灘の酒造家であった。今津の長部文治郎一〇一七石六斗、丸石合名会社一〇〇石、野田六左衛門五〇石、仲買人を通して購入するものは、小西新右衛門二〇〇石、辰馬悦蔵一〇〇石、石崎合名会社一〇〇石がその主なものであった。大正六年は入札によっており、日本摂酒株式会社は一石につき二五円七八銭でおとして一〇五〇石(二六二五俵)をおさえ、長部は僅かに二四五石六斗(六一四俵)になり、この両者で小林の米のすべてを買占めた。
 大正五年「改良米役員人足帳」によると、改良米の共同販売に要した金額は、人足賃金四七円三〇銭、費用一〇九円一五銭、合計一五六円四五銭であった。収入は一石につき口銭一二銭一厘としていたので一六六七石六斗分、二〇一円七七銭九厘六毛であった。これから共同販売費用を差引くと約四五円が残った。銀行預金より一〇円を引出して補い、五五円としてこれを共同苗代の補助とした。一反につき三円五七銭の割として、六反三畝・一反五畝・二反二畝の三カ所の三つの組に分けている。
 「大正五年九月二十四日 共同苗代稲作落札人控 小林村共同苗代組合」によると、五つの組をつくり、字時長二カ所、堀切一カ所、棟方五カ所、計八カ所に共同苗代を設けることにし、それぞれにつき苗代作りを入札できめたようである。一反につき二石三斗前後が多いが、一カ所だけは一石五升と低い。肥料も鰊粕などは共同購入で分配しているが、大正元年十二月の購入者は四九人で、それ以外に翌年の四カ所の苗代には別に分配している。

写真109 共同耕作・稲作落札人名簿
(小林土地株式会社所蔵)


 小麦の売却石数は明治四十五年に三一三石、大正三年は四一九石であったが、その集荷販売は米とほぼ同様であった。いずれも小林村改良米組合あるいは小林区でおこなったのであるが、それらは小林事務所を中心としたむらの組織であり、寄生地主が主導する組織であった。