川辺郡では明治二十二年ころ、郡役所の補助金八〇円を得て川辺郡私立勧業会が創立された。西谷村私立勧業会の設立年月日はわからないが、明治二十七年の会員数は三二名で、開会度数一回、「本会ハ西谷村農工商ノ改良進歩ヲ図ル目的ヲ持シ就中開会ノ当日ハ農法ヲ各自話シ以テ散会セリ盛況ト云フヲ得ス」と報告している。二十八年は西谷村立勧業会と記し、会員は正員一三名、加員四一三名、年一回九月二十二日開会、本村選出川辺郡私立勧業会正会員選挙の件を議したが、その手数を省き会長指名とし、そのあと林務官鈴木審三の櫟(くぬぎ)栽培による造林法と、小島本部書記の蚕業法の話とがあったが盛会ではなかった。二十九年は暴風雨大洪水で開会せず、三十年は九月二十四日に秋期勧業会を開き、富田本郡農事試験場長の稲作講話並に害虫論を聞いた会員は六〇余名であった。十一月二十八日勧業品評会を西谷村役場で開き、米二一点、麦三点、豆類四点、蔬菜四点が出品され、審査の結果一等一人大鍬一挺、二等七人小鍬一挺、三等一五人本鎌一挺、四等三人褒状の賞を与えた。三十一年は四月三日役場で春季勧業会を開き、富田場長の苗代整理法、選種法および稲作法の話を聞く者一〇余名、十二月二十五日の秋期品評会では、米四〇点、麦二一点、豆類一七点、蔬菜五点、薯二点、其他八点の出品で、賞品は大箕・斗箕・紙一帖などであった。三十二年秋には阿弥陀寺で本県林業巡回教師小橋省二の林業の話、郡農事試験場長伊藤熊太郎の試験の談話、郡書記の吉野林業や竹林栽培法の話があり九〇名が出席した。当時の農政が末端へ浸透する状況はこのような形であった。
明治三十三年十二月には西谷村農会が創立された。会員五四〇名、小浜村農会は三十四年一月創立四〇〇名、長尾村は同年八月二七〇名であった。川辺郡農会は同年二月の創立である。