このような米穀の検査は、地主および米穀商人の利益となったが、小作人は良質の米の増産を強いられることになった。地主と小作人との間には対立が表面化し、明治四十三年一月伊丹町で小作人は、小作料のうちから俵装料一石につき一斗三升約一三%を減免することを要求した。
大正七年には川辺郡農会稲作競進会規程が定められ、同十一年には穀物検査所伊丹出張所から各町村に産米改良奨励事項が通達された。大正十年には長尾村で九年度の小作料の問題で小作争議を起こしている。
明治末年から大正初期にかけての地主・小作関係のなかから、労働運動の影響をうけた農民運動が生じ、農民組合が結成される基盤が形成されてきた。大正八年九月兵庫県農会は、「地主対小作人関係及農業労働力調整ニ関スル参考資料」を市町村に配布し、地主・小作関係の変化とそれに対する対策の参考とした。大正七年の米騒動以後に増加した小作争議は、都市の労働争議の影響を受け小作人組合による示威や団体交渉の形態をとり、従来の地主・小作間の主従的情誼関係では解決できない状況となっていたのである。大正十一年九月には杉山元治郎や賀川豊彦らが、日本農民組合を結成し小作争議の指導に乗り出した。小作争議は個別的な要求から階級闘争の性格をもった近代的農民運動へと変わってゆくのである。
政府は小作争議が増加する状況に対し、小作制度の調査を開始した。大正九年には小作制度調査委員会ができて十一年に小作争議調停法案を出し、十二年には小作制度調査会ができ自作農創設案を出した。十三年に帝国経済会議、十五年に小作調査会、昭和四年(一九二九)に社会政策審議会が設置され小作立法を考えた。しかし結局小作調停法と自作農創設維持政策は具体化したが、小作立法は実現しなかった。