温泉や歌劇・植木・球根などによって、宝塚市が国の内外に有名になるにつけても、その市名が、どんないわれによるのだろうか、ということは興味深い話題である。そしてその由来について研究した人々もあったようで、なかでも忠実に史料にあたりながら解明しようとしたのは、市域に居住していた歴史学者故粟野頼之祐であった。結果としては、その軌跡をたどることになるかもしれないが、ここでもいちおうの解明を試みよう。
地名としての「宝塚」が最初に記録にあらわれるのは、延宝八年(一六八〇)二月十九日の「摂州武庫郡川面村新田検地帳」で、記載の字名ごとに地味と畝歩をまとめると
宝塚東 下々畑 五反壱畝拾歩
宝塚南 下畑 弐畝弐拾七歩
宝塚南 下々畑 弐反壱畝四歩
宝塚北 下々畑 壱反六畝弐拾九歩
である。ついで享保二年(一七一七)三月「新田名寄帳川面村」には宝塚・宝塚東・宝塚下・寺山の地名があり、元文三年(一七三八)九月付で、「宇治御役所」に提出した「午年田畑地並合毛附帳」にも、宝塚・宝塚西・寺山の名がみえる。この二史料に寺山とあるのは、「摂州武庫郡川面村絵図」(年号不詳、元文三年カ)に、樹木の生えた山を描き「寺山」と記入しているところと同じで、そこは「宝塚」だと思われる。さらに享和三年(一八〇三)「川面村安場村土砂留絵図」には「たからづか谷奥行八町程」とあり、天保四年(一八三三)十一月改川辺郡上川面村同郡安場村武庫郡下川面村「土砂留普請帳」には「覆盆子川(一後川)左宝塚谷奥行八町」とある。宝塚というのは現在御殿山三丁目六番(旧川面村字宝塚一〇番地)で、約〇・三キロメートル平方の範囲であった。