地誌が語る宝塚

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「宝塚 同-郡米(川辺郡)-谷-村ニアリ此塚(ツカ)ノ許(モト)ニ於テ物(モノ)ヲ拾(ヒロ)フ者必ス幸ヒアリ此(ココ)ヲ以テ宝塚ト号(ナヅ)クル所伝タリ」としるして、宝塚を世に広く紹介したのは、元禄十四(一七〇一)年岡田〓志著の『摂陽群談』であった。元文元年(一七三六)末売布神社の社号石を建立した並河誠所(なみかわせいしょ)は、これよりさき享保十六年『五畿内志』編集の調査のため宝塚地方をおとづれた(『第二巻』四三四ページ参照)。やがて享保二十年「摂津志」を書きあげたが、川辺郡陵墓のうち、荒塚の箇所に「宝塚首冢在リ川面村ニ」としるし、宝塚が川面村にあることを明らかにしている。寛政十年(一七九八)完成した『摂津名所図会』は、「宝塚同村(米谷村)にあり」として『摂陽群談』と同じ内容の伝承をしるしながら、なお別の箇所では「宝塚 川面村にあり首塚 同村にあり」とも書いている。いずれにしても、以上のような諸記録・諸地誌に記された「宝塚」が市名の起源と考えられる。

写真114 摂陽群談宝塚の項