武庫川右岸の「宝塚」

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明治三十年十二月、阪鶴鉄道の開通により「宝塚」駅がつくられた(現国鉄宝塚駅)。さらに明治四十三年三月箕面有馬電気軌道(箕有電鉄)が敷設されて、その終点駅が「宝塚」と名づけられた。さて、阪鶴鉄道・箕有電鉄ともその駅の所在は武庫川左岸なので、前記の諸記録・諸地誌にしるす地名が駅名になったかとも考えられるが、しかし宝塚温泉は、すでに明治二十年に開業しており、その名称にちなんで宝塚と命名されたと考える方がむしろ妥当であろう。それならば武庫川右岸伊孑志の一隅の地に、なぜ「宝塚」温泉と名づけたのであろうか。まず尋ねてみたいのは、右岸に宝塚の地名があるだろうかということである。
 並河誠所の『五畿内志』の「摂津志」には、上ケ原新田村に車塚、小林村に穴塚、鹿塩村に薦塚(こもづか)があると書いているが宝塚の名はみえない。ところが、良元村宝梅園中に一つの塚があって、それを「高原塚」とよび、のちこれが転訛(てんか)して「宝塚」とよばれるようになった、という説がある。しかし、いまのところ地方古記録にも地誌にも高原塚の名はみえない。また土地の古老もその名を聞かない、という。

写真115 宝梅園の「宝の塚由来」碑文


写真116 御殿山の「宝の塚」碑