霊泉と塩尾寺

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伊孑志武庫山の塩尾寺の由来記に「塩尾寺観音縁起」「御供水の由来」という二つがある。大略つぎのような内容になろうか。
  室町幕府第十二代の将軍足利義晴の時代(一五二一~四六)、このあたりは家数一〇〇〇軒を数える繁華な土地であった。そこに貧しい一人の女人がほそぼそとくらしをたてていた。五〇歳になって悪瘡(あくそう)をわずらい、身心ともに苦しみながらも月々に中山寺に参り、勧行懈怠(けたい)のことがなかった。ある夜僧形の人が夢枕に立ち、武庫川の鳩ケ淵の川下にある大柳の下に湧いている霊泉に湯浴みをすれば、病は癒えると告げて消え去った。教えられたとおり冷泉を湯にして怠らず身を洗っていたところ、日ならずして老女の病は癒えた。
 やがて老女の発願により、大柳をもって「柳の観音」「塩出観音」とよばれる観音像が刻まれ、一宇が建立されてのちの塩尾寺となるのである。武庫山の麓を洗う武庫川の岸近くに湧出していた冷泉が、病気治療に卓効のあることを早くから付近の人々は知っており、塩尾湯あるいは川面湯とよんでいたのであろう。それが観音信仰と結びつき歴史化、合理化されて「塩尾寺縁起」となったのであろうと思われる。
 大正十年(一九二一)十一月発行の『武庫郡誌』には、これ(宝塚温泉)を小林湯、塩尾湯あるいは川面の湯とも称し広く知られていたが、「中世戦乱打ち続くに及び次第に衰微し、遂に塩尾寺に参籠(さんろう)する者の外是を知る者なきに至れり」「明治七年頃漸く勃興の機運に際会し、温泉場の設備亦稍々整ふに及びて再来往頻繁(ひんぱん)となり」としるしている。
 『武庫郡誌』がどんな資料をもとにこれを書いたのか、いまは明らかにするよしもないが、この記述が事実とすれば相当古くから温泉があったということにもなり、また、明治初期にはかなり多くの人々が湯浴みのために来往していたことにもなろう。
 伊孑志の古老田中和作によれば、塩尾寺の大燈籠には「観世音献燈・塩尾寺願主大坂□□天保一五坤□」とあり、また「大坂講中施主植木屋久兵衛・安政三年丙辰三月二十一日」としるす石塔や「塩尾寺観音これより十八丁摂〓(州)尼崎講元願主灘屋利右衛門大……」と刻んだ道標がある。「六甲山塩尾寺十一面観世音、すぐ十五丁」の道標は、左側面に「厄神明王」、右側面に「大坂観栄講」裏面に「明治三年□月□日」と刻まれているという。すくなくとも江戸時代末期には、近郷から塩尾寺に参詣する人たちが多かったことをこれらのものが証明はするが、その参詣が温泉とかかわるかどうかを明らかにすることはできない。

写真117 塩尾寺本堂