ところで、西宮から甲東・鹿塩・小林の村々を経て伊孑志を通り、生瀬・有馬方面へ通じる道(県道・いま仮に見返岩道という)は、伊孑志の北部がきわめて険阻であり、車馬の通行の不可能な細い道であった。また武庫川左岸の川面村へ渡る橋も出水のたびに流失して交通をはばんだ。
嘉永六年(一八五三)小林村に生まれた田中初吉は、明治十六年三〇歳の時に同村高塚武一郎とはかって見返岩道の改修を志した。兵庫県から約半額の補助をうけたものの、なお多額の私財と有志の寄附金を投じ、七カ月を要する難工事の末、その改修を終えた。これによって、伊孑志・生瀬の間は「交通の利便頓(とみ)に加わっ」たのである。
見返岩道の改修は、今日の宝塚発展の一つの礎石となったのであり、記憶されなければならないであろう。