保生会社と村

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借地は伊孑志村の共有地であったから、伊孑志村への特別な配慮として、保生会社は無賃入浴鑑札第一号より二〇号まで二〇枚を贈った。これに対して明治二十年八月村総代藪内亀吉名をもって、保生会社社長栢尾徳十郎宛、受取証を出している。
 保生会社が伊孑志村総代に支払った明治二十二年の温泉敷地料は、約束通り年借料一二円五〇銭、郡村宅地税一円八五銭、官有地借用税八六銭四厘、合計一五円二一銭四厘であった。保生会社は、タンサンラム子(ネ)泉製造場を建設したともいうが、この時期の鉱泉販売については、それを証する資料が未発見である。塩瀬村のゼ・クリフォード・ウヰルキンソンタンサン鉱泉株式会社は、明治二十三年一月の創業なので、保生会社がもし最初から鉱泉を販売していたとすれば、それよりも早かったことになる。
 温泉場と旅館の開業によって、伊孑志村の一角は急ににぎやかになってきた。二十二年九月には神戸湊川神社の宮司折田年秀や兵庫県知事内海忠勝が来宝したが、そのころには治療や遊覧客だけではなく、すでに芸妓などをつれて往来を踊り歩くという醜態を演ずる遊興客もあり、その姿が知事の目にとまった。
 「旅館の一四、五軒もできたならば、警察の監督も必要になるが、温泉場開設直後のことであり、これから発展しなければならない時でもあるから、当分の間は旅館などが申合わせをして自治的に取締まるように」との助言であった。その後(二十三年)間もなくものわかりのよい巡査が一人派遣され、たいそう評判がよかったということである。おそらく当時の西宮警察署長小林伊成のはからいによるものであろう。