温泉場持主組合

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宝塚温泉場は、西宮よりは二里一四町、三田より五里(一里は約四キロメートル・一町は約一〇九メートル)、それぞれ人力車の便はあるとしても、まだ鉄道も電車もないころのことで、入浴客の急速な増加は望めなかった。保生会社はついに収支償わない状態に陥り、明治二十五年には会社を解散して、温泉場を閉鎖することになったという。この前後の事情は明らかでないが、明治二十年三月に会社と伊孑志村との間に結んだ契約書による永代借地権は、保生会社から宝塚温泉場持主組合に譲渡されたものと思われる。
 保生会社が挫折した明治二十五年のことであるが、一株一〇円、二〇〇株をもって株式組織とされた宝水会が、塩谷川(紅葉谷)から鉄管を敷き、その伏流水を引いて温泉場や旅館・人家などに送水したということであるが、この詳細も明らかでない。

写真122 宝塚旧温泉場の玄関 明治末期 (福井文子提供)


 さて、さきの永代借地については、一部を残して売買が成立し、明治三十年三月二日、宝塚温泉場持主組合中谷徳恭と地主総代藪内茂吉との間につぎのような契約証書を取交した。
 一、萩原吉右衛門・春元重助・小栗小三郎・清海復三郎・中谷徳恭の五名は温泉場を改良する目的で、地主総代藪内茂吉等と協議の上、伊孑志三昧三〇二番郡村宅地藪内亀吉名儀の共有地六畝五分の内六畝歩を、清海復三郎名儀で買収する。
 二、残り反別五歩は、薬泉流出の箇所なので塩尾寺観音御供水用として、伊孑志村に永代残しておくことを承諾する。
 三、この薬泉は諸人および温泉浴客の飲料に供する外は、当温泉場持主組合において永久随意に汲取ることができる。その代わり地租ならびに諸税を支払う外、なお永代毎年玄米一俵宛を献納する。
 四、将来この土地を売却するさいは、当組合の承認を得た上でなければ、他に売買譲渡等しないことを約定する。
という内容であった。
 明治三十三年七月二十日、この鉱泉地五歩について、前記の萩原吉右衛門外四名が、地上権を設定し、土地所有者田中佐吉外九名、代理馬殿安吉と契約書を取交した。その内容は「五歩の地に係る公課税は萩原吉右衛門外四名にて負担するは勿論、借地料として一ケ年に付玄米四斗を改めて一石とし今後増減せざる約束にて永代毎年十二月二十五日に萩原吉右衛門外四名より支払ふべき事、但し玄米四斗とあるは明治三十年三月二日之契約書塩尾寺観音御供米とあるを指す、前記地所永久使用する権利ある事を明確ならしめんため」この契約書を作製する、というものであった。なお右にある借地料は、その後昭和五年に一石五斗、同三十年に二石となった。実際には今日米二石を政府買上げ価格で伊孑志土地株式会社が受け取り、その半額を「おとう」の補助とし、残りを塩尾寺へ献金している。
 以上のような経緯をみると、温泉場は阪鶴鉄道が開通した明治三十年から宝塚温泉場持主組合によって経営されたことはほぼまちがいないが、それまでの約五年間の事情は明らかでない。