明治三十年代の温泉場

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萩原吉右衛門外四名の温泉場持主組合によって新発足をした温泉場は、翌三十一年十一月の大雨で武庫川が氾濫し、浴場は流失してしまった。温泉再築の碑によると、浴室に掲げてあった扁額は、泉州浜寺(堺市)までも漂流していったという。組合員協議の結果、三十二年春新築にかかり、同年六月に落成、開場した。阪鶴鉄道がすでに三十年末に開通し、宝塚駅ができていたので、宝塚温泉は大阪からきわめて便利になり、浴客が増加し、旅館・料亭の数は急速に増加した。このころ一昼夜に鉱泉が五五〇石、炭酸泉は七二石の湧出量であったという。湧出するその鉱泉は、食塩アルカリ性で、反応は初め酸性を呈するが、煮沸すると茶色を帯びた白濁を生じ、アルカリ性に変わる。浴用・服用とも有効である。炭酸泉は炭酸を多量に含んでいて、服用すると胃の粘膜を刺激して分泌を促し、消化器の働きを助ける等の証明を、早くも明治二十四年に得ていた。

写真123 温泉再築の碑文
宝塚第一ホテル内


 さて、三谷貞広の写生画を挾み、蓬莱(ほうらい)橋(宝来橋)・温泉場・塩尾寺・丁子(字)ケ滝(高さ四丈・幅一丈二尺)などの写真をのせている加藤紫芳編の『宝塚温泉案内』は、当時の絵はがきを除けば、明治三十五、六年ごろの宝塚を具体的に知ることのできる唯一のものである。これによれば、武庫川にかかる宝来橋は、「宝塚有志者の醵金に成りしものにて、一切他の支出を仰がず、橋杭一本づつ橋の中央に並列して橋桁(はしげた)を支えしめたる」めずらしい構造であった(巻頭写真5参照)。

写真124 『宝塚温泉案内』表紙
明治36年刊(池田文庫所蔵)


 武庫川左岸の川面村から橋を渡った所の左側が温泉浴場で、温泉地はこのころすでに武庫郡中有数の市街地となっていた。炭酸煎餅(せんべい)やようかん・湯染などを売る店も並び、市販する鉱泉の瓶詰所や井上織物工場では多数の職工も働いていた。
 旅館・料理屋は約一〇軒となっていたが、宿泊料は上等が七〇銭・並等は五〇銭、昼飯料は三五銭ないし二五銭、宴会は五〇銭以上、入浴料は上等が五銭、並等が三銭で、特別は二〇銭であった。「浴客の不時に備へ、且つは土地高燥にして病痾(びようあ)療養に適切の地なるを以て、病者収容の為特に尽力」して春日育造は春日病院を開設した。明治三十六年七月の広告によれば宝塚病院と改称されていて、入院料は特別一円五〇銭、一等一円、二等六〇銭、三等三〇銭であった。その所在は現在の旅館「若水」付近であったという。

写真125 宝塚病院広告
『宝塚温泉案内』より(池田文庫所蔵)


 温泉場からみる対岸は一面の河原で、いま行楽客やたからづかおとめの行きかう「花のみち」は武庫川左岸の堤防であり、その後方旧安場村の下を汽車が走り、右手には川面村の家並がみえ、遠く東西につらなる長尾山系が、春ならば霞に包まれる、というまことに牧歌的な眺めであった(巻頭写真4参照)。
 前記『案内』にはまた、当時の逆瀬川口から甲山を遠望する写真を掲げ、「川と云(いわ)んよりは寧(むし)ろ沙漠と云ふ方適当に似たり。川の全面沙(すな)を以て満され、山よりなだれ落る沙一日に千石に近し。依て千石ずりの名あり」と逆瀬川の様子を記している。