明治四十年代の宝塚

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宝塚温泉がふたたび発展し隆盛となるのは明治三十八年ごろからである。阪鶴鉄道は明治四十年八月一日国有鉄道福知山線となるが、その宝塚駅の乗降客をみると、表55のとおりである。明治四十一年二月十六日、椙原透等の尽力斡旋によって、字武庫山七六八番地に宝塚郵便局が設置され、同四十二年八月二日同字七〇番地に移転し、四十三年三月二十六日に集配逓送事務を開始した。その区域は良元村および小浜村の全部であった。同年十一月六日には電信電話事務を開始したが、架設当時の加入者は二四人であった。大正元年十二月一日には、同字七六八番ノ三七に移転した。
 

表55 国鉄宝塚駅乗降客数

等 級明治34年明治39年明治40年明治41年明治42年大正6年大正15年
乗 客
1等7265266837582013
2等6,6688,9318,40215,6258,19114,270
3等45,32549,53561,24397,149123,276310,400
官用139
総計53,95452,85858,99270,328113,532131,668324,673
降 客1等799343
2等7,3357,089
3等50,73840,535
官用140
総計49,81059,01247,96768,135105,373127,769335,597

『川辺郡統計書』および『兵庫県統計書』による


 
 明治二十三年、一人の巡査が派遣されたことはまえにもふれた。当時は西宮警察署の管轄下にあり、温泉街の繁栄に伴い宝塚と小林に駐在所が設けられていた。やがて大正元年十二月一日宝塚警察署が新設され、温泉街の南の端、武庫川に臨み県道に面した要所に庁舎が完成したのは、二年五月三十一日のことであった。その管轄区域と巡査駐在所はつぎのとおりである。
 武庫郡良元村一円(旧西宮署管轄)、小林駐在所
 川辺郡小浜村一円(旧伊丹署管轄)、小浜村駐在所
 川辺郡西谷村字玉瀬譲葉(旧広根分署管轄)
 川辺郡西谷村切畑字桜小場(同前)
 有馬郡塩瀬村一円(旧有馬署管轄)、名塩駐在所・生瀬駐在所
街の発展とともに設置あるいは拡充された官衙(かんが)の状況は以上のようであるが、つぎに民間企業の様子をみることにしよう。
 すでに明治三十年前後から始められていたと思われる鉱泉の瓶詰(びんづめ)は、四十二年三月温泉場持主組合より独立して、萩原吉右衛門を代表とする宝塚鉱泉合資会社となった。大正六年現在で、男子一〇人、一人一日六〇銭・女子二〇人、一人一日三〇銭、一日一〇時間、一年一五〇日の労働であった。このころ鉱泉の瓶詰は各地で盛んとなり、明治三十八年川辺郡多田村にシー・ヒラノ・ミネラルウォーター・カンパニー源泉所が、四十年二月に同じ村に帝国鉱泉株式会社平野工場ができている。いわゆる「平野水」の会社である。さらに四十四年には有馬鉱泉合資会社が設立されている。

写真126 宝塚鉱泉合資会社正門と製品
昭和7年刊「宝塚」より


 箕面有馬電気軌道が営業をはじめたのは、明治四十三年三月十日のことで、これにより大阪・宝塚間の交通はいちだんと便利になった。一週間後の十七日には、駅前に西宮銀行池田支店宝塚出張所が営業を開始した。
 同じ四十三年十二月一日から、猪名川水力電気株式会社(四十二年七月川辺郡東谷村国崎に開設)が、宝塚温泉場に電燈・電力を供給し、四十四年四月末には需要戸数四七、点燈数三四一となった。大正二年二月二十二日には小林に、五月七日蔵人に、四年二月二十六日鹿塩にそれぞれ送電した。五年十月末の需要戸数四三四、点燈数一五〇四に増加した。「行客絡繹(らくえき)たるの状況を呈するに至り、宝塚温泉場の繁栄は、延いて全村の繁栄昔日の比ならざるを見るに至れり」と、良元村の急速な発展ぶりを『武庫郡誌』はしるしている。
 良元村では明治三十七年から四十二年の間に商業の数が三・八倍に増加し、宝塚温泉街はこの数年間に基礎ができたということができる。小佐治豊三郎は明治四十四年の状況を「旅館旗亭(きてい)を合せ五十余軒、其他の人家二百余戸を有し、尚日に月に発展の状況を呈する一大温泉場となるに至れり」と記している。