表55 国鉄宝塚駅乗降客数
等 級 | 明治34年 | 明治39年 | 明治40年 | 明治41年 | 明治42年 | 大正6年 | 大正15年 | |
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乗 客 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | |
1等 | 726 | 526 | 683 | 758 | 201 | 3 | ||
2等 | 6,668 | 8,931 | 8,402 | 15,625 | 8,191 | 14,270 | ||
3等 | 45,325 | 49,535 | 61,243 | 97,149 | 123,276 | 310,400 | ||
官用 | 139 | |||||||
総計 | 53,954 | 52,858 | 58,992 | 70,328 | 113,532 | 131,668 | 324,673 | |
降 客 | 1等 | 799 | 343 | |||||
2等 | 7,335 | 7,089 | ||||||
3等 | 50,738 | 40,535 | ||||||
官用 | 140 | |||||||
総計 | 49,810 | 59,012 | 47,967 | 68,135 | 105,373 | 127,769 | 335,597 |
『川辺郡統計書』および『兵庫県統計書』による
明治二十三年、一人の巡査が派遣されたことはまえにもふれた。当時は西宮警察署の管轄下にあり、温泉街の繁栄に伴い宝塚と小林に駐在所が設けられていた。やがて大正元年十二月一日宝塚警察署が新設され、温泉街の南の端、武庫川に臨み県道に面した要所に庁舎が完成したのは、二年五月三十一日のことであった。その管轄区域と巡査駐在所はつぎのとおりである。
武庫郡良元村一円(旧西宮署管轄)、小林駐在所
川辺郡小浜村一円(旧伊丹署管轄)、小浜村駐在所
川辺郡西谷村字玉瀬譲葉(旧広根分署管轄)
川辺郡西谷村切畑字桜小場(同前)
有馬郡塩瀬村一円(旧有馬署管轄)、名塩駐在所・生瀬駐在所
街の発展とともに設置あるいは拡充された官衙(かんが)の状況は以上のようであるが、つぎに民間企業の様子をみることにしよう。
すでに明治三十年前後から始められていたと思われる鉱泉の瓶詰(びんづめ)は、四十二年三月温泉場持主組合より独立して、萩原吉右衛門を代表とする宝塚鉱泉合資会社となった。大正六年現在で、男子一〇人、一人一日六〇銭・女子二〇人、一人一日三〇銭、一日一〇時間、一年一五〇日の労働であった。このころ鉱泉の瓶詰は各地で盛んとなり、明治三十八年川辺郡多田村にシー・ヒラノ・ミネラルウォーター・カンパニー源泉所が、四十年二月に同じ村に帝国鉱泉株式会社平野工場ができている。いわゆる「平野水」の会社である。さらに四十四年には有馬鉱泉合資会社が設立されている。
箕面有馬電気軌道が営業をはじめたのは、明治四十三年三月十日のことで、これにより大阪・宝塚間の交通はいちだんと便利になった。一週間後の十七日には、駅前に西宮銀行池田支店宝塚出張所が営業を開始した。
同じ四十三年十二月一日から、猪名川水力電気株式会社(四十二年七月川辺郡東谷村国崎に開設)が、宝塚温泉場に電燈・電力を供給し、四十四年四月末には需要戸数四七、点燈数三四一となった。大正二年二月二十二日には小林に、五月七日蔵人に、四年二月二十六日鹿塩にそれぞれ送電した。五年十月末の需要戸数四三四、点燈数一五〇四に増加した。「行客絡繹(らくえき)たるの状況を呈するに至り、宝塚温泉場の繁栄は、延いて全村の繁栄昔日の比ならざるを見るに至れり」と、良元村の急速な発展ぶりを『武庫郡誌』はしるしている。
良元村では明治三十七年から四十二年の間に商業の数が三・八倍に増加し、宝塚温泉街はこの数年間に基礎ができたということができる。小佐治豊三郎は明治四十四年の状況を「旅館旗亭(きてい)を合せ五十余軒、其他の人家二百余戸を有し、尚日に月に発展の状況を呈する一大温泉場となるに至れり」と記している。