大正期の宝塚

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大正初期の温泉地の模様は『摂北温泉誌』にくわしい。宝来橋は二本の橋脚となっており、迎宝橋もすでにかかっていた。大正三年には旅館の数が約三〇軒、料理を専業とする者も数軒あり、検番、芸妓置屋もあって「脂粉匂ふ美人五、六十人」もいるようになる。そして米穀商・雑貨商・洋酒商・八百屋・菓子屋・小間物店などもふえて、文字どおりの温泉街となっていった。また福知山線宝塚駅から宝来橋にかけての栄町にも各種商店や旅館ができていた。
 武庫川右岸の宝塚と左岸の栄町の業者によって、「相互の意志の疏通を計り、協力一致将来の改善発展を企画する」目的で、「宿屋料理屋飲食店同業組合」が組織されたのが、大正二年一月であった。この組合で協定した当時の宿泊料は、特等一円五〇銭以上、一等一円五〇銭、二等一円二〇銭、三等一円、また昼食代は一等七五銭、二等六〇銭、三等五〇銭であった。
 温泉浴場は、大正六年から株式会社宝塚温泉(代表取締役平塚嘉右衛門)の経営となり、納涼台を新築し、男子風呂浴室内に流しを採用するなど、新しい企画をうちだし、入浴料も改訂した。また温泉場は七年三月、宝塚郵便局特設電話加入が認可された。このころの温泉場の従業員は、支配人一人、出札二人、改札二人、汽罐(きかん)係一名、下足係九人、御客係二名、その他三名の計三〇人であった。

写真127 人力車賃金表 年次不明 (福井文子所蔵)


写真128 宝塚温泉街 大正期 (福井文子提供)


 塩谷川の伏流水を送水していた宝水会の水道は、その後平塚嘉右衛門の手に移り、水源池などの規模が改善されて大正五年七月から、簡易水道として旅館など一六三戸に送水されるようになっていた。
 温泉地の発展によって、良元村のうち伊孑志からこの温泉地区を分離して、宝塚区を新設することになり、伊孑志から豊田次郎右衛門・藤本松吉・馬殿貞次の三名が交渉委員となり、宝塚住民側の小佐治米太郎・福井善兵衛・木村茂の三名の交渉委員と数回にわたる折衝の結果、およそつぎのような条件による実現を提案した。
 一、区域は伊孑志字塚原・西野・山田・本山田・坂口・亀谷・辰新田乙・三昧の一部(宝塚字湯本となる)・逆瀬の一部(山林一反三畝)および武庫山の一部。以上の地価四万一三七八円三二銭、地租一〇三一円六八銭。
 二、宝塚区新設に対する報償金を、宝塚区より伊孑志むらへ交付すること。その金額は、地租壱円に付金参円参拾参銭の割で算出した総額とする。
 三、従来の伊孑志区有財産や従来の伊孑志にかかわる一切の権利および義務については、宝塚区は何らの関係も有しない。
 四、灌漑および飲用水に関しては、宝塚区は従来の慣例を尊重し、道路・河川・溝渠(こうきょ)等と共に、伊孑志の同意を得るのでなければ何等変更しないこと。
 この協定案は、時の良元村長平塚嘉右衛門の提案という形式をとり、両地交渉委員は各地区住民総会の決議を得ること。これを村長に報告した時をもって協定が成立するものとし、署名捺印したのは大正四年六月二十八日であった。諸手続を終わり、村長が捺印した日付は六月六日にさかのぼっている。旧温泉地区は宝塚区となり、小佐治米太郎が初代区長をつとめることとなった。
 こうして良元村は、鹿塩・蔵人・小林・伊孑志の四部落に宝塚を加えて五部落となったのである。
 このころには武庫川左岸にも、新温泉・パラダイス・宝塚少女歌劇をとりまく新構想の街が創(つく)られ、成長する時期である。そして向かい合う武庫川の両岸は共栄を願いながらも、新・旧温泉で発展への競争をはじめるということになった。
 しかしその後両岸の資本の提携があり、平塚嘉右衛門と阪急電鉄が共同出資して、五〇万円の資本金をもって大正十四年八月十二日株式会社宝塚ホテルを設立、十五年五月十四日宝塚南口駅前において営業を開始した。

写真129 初期の宝塚ホテル (阪急電鉄提供)