宝塚新温泉は、明治四十四年五月一日大理石造りの大浴場を中心とする家族的娯楽場として開場した。翌四十五年七月一日には、室内水泳場を中心とする娯楽設備と近代的構造の洋館を増設し、パラダイスとよんだ。しかし室内水泳場はスチームの設備がなく、また男女共泳や女子の観客の入場が許されなかったこともあって、この経営は失敗した。そこでこの水泳場の転用計画が練られ、プールの上に板を張り、その上で温泉客のための余興として幻燈を映写してみせていた。
当時、大阪の三越に少年音楽隊があり、これが好評であったことにヒントを得て、宝塚に少女の音楽隊をつくり、板張りにした水泳場で余興として公演しようという案が実現することになった。最初は婦人唱歌隊ということで募集し、大正二年七月十五日、一九歳を頭に一二歳以上の第一期生一六名を採用した。
指導者は安藤弘、唱歌は安藤ちゑ子、音楽は高木和夫、事務は温泉主任安威勝也、藤本一二らによって唱歌隊の教育が発足した。安藤弘はかねて歌劇に抱負をもっており、この唱歌隊の余興を歌劇にまで発展させようという彼の主張が認められ、振付に高尾楓蔭・久松一声が招かれた。第二期生として四名の少女が加わって後、十二月宝塚少女歌劇養成会と改称された。生徒の教育は東京音楽学校を範とし、小学校修業一五歳以下の少女に三年間の器楽・唱歌・和洋舞踊・歌劇を教えた。