処女公演はさいわいに賞賛を博したが、その後は不況の影響もあって、観客数は大して増加せず、多難な時代が続いた。その間、大正三年十二月に始まった大阪毎日新聞社主催の大毎慈善歌劇会による大阪北浜帝国座での公演や、京都・神戸等における出張公演がたびたびおこなわれ、広く世間に知られるようになった。大正七年五月には、雑誌「新家庭」の勧誘により帝国劇場で五日間の最初の東京公演をおこなった。上京する生徒たちには、久留米絣(くるめがすり)や袴が支給された。
当時、帝国劇場のいわゆる帝劇オペラが失敗し、伊庭孝のひきいる浅草オペラがはじまっていたが、日本における歌劇は絶望視されていたので、少女歌劇の東京公演は多大の危惧(きぐ)の念をもたれたが、翻訳歌劇でなく、「日本の言葉を日本の言葉として歌わせ」「日本の舞踊をかくまで西洋風の形式に旋律化し得た」点などが高く評価され、予期しなかった成功をおさめたのであった。大正七年までにみずからも二一編の作品を書き上演させた小林一三はこの時、宝塚少女歌劇はすこぶる幼稚なまた未熟な、その理想の一部分すらも実現していないものであるが、かかるものが時世の要求であり必要であることを力説している。東京公演はそれを実証したとみたのである。