観客はこのころからふえはじめ、パラダイス劇場では収容しきれなくなったので、箕面公会堂を新温泉に移築することになり、大正八年三月に現在大劇場のある場所に完成した。舞台設備・照明もいちだんとよくなり、これまでの約三倍の観客を収容することができるようになった。新温泉入場者はパラダイス劇場に無料で入れたが、公会堂劇場開場とともに、平土間は無料、左右の椅子席は予約代二〇銭とした。大阪からの往復の電車賃四九銭、新温泉入場料一五銭、劇場椅子席料を合計して八四銭であったが、満員のことが多かった。
しかし、大正期の思想の変化を背景として、少女歌劇の大衆化と芸術性との矛盾あるいは時代錯誤が論じられるようになり、坪内士行は大正九年七月公演の歌劇「八犬伝」で、その時代錯誤をみごとに表現した。大正十年春の棋茂都陸平作の「春から秋へ」は、在来の日本舞踊のしきたりを克服した新舞踊として評価された。少女歌劇の愛好者の意見には、現状維持説と現状打破説とがあったので、大正十年七月の夏季公演から二部制を実施した。新歌劇場とパラダイス劇場の双方において公演し、十月十五日から第一部を花組、第二部を月組と、それぞれ改称した。十一年からは年八回の公演とし、また生徒数が増加したので、新温泉東南の隣接地に新校舎が建てられた。