大正七年に国民劇の創造について述べ、大正十年に大劇場論を主張していた小林一三、同十三年大劇場竣工にさいしつぎのように述べている。「私の目的は一部の階級の人々の手から離して、劇をして国民のものにしたい、即ち劇は贅沢(ぜいたく)品ではない、人間生活の日用品として、取扱うべきものである。又それが国民全体として希望であり輿論(よろん)である以上は、どうしても国民の生活を標準にするより外に途はない、……夫婦づれ、家族づれ、即ち広く一般の家庭を標準にして考えてみると、高くて一人三円、二円、一円という位が最も適当なる観覧料ではあるまいかと信ずるのであるから、是を主たる問題として、現在の芝居を国民のものにしやうとするには、収容力を増大した大劇場より外に妙案なしであって、それを現実にした我が宝塚の大歌劇に於て、初めて、我々の理想論を具体化すべき責任を有するものと覚悟して居る」と。この国民劇を家族づれで安くという理想は、新温泉および大正十三年七月二十五日に開業したルナパークの入場料三〇銭、大劇場指定席三〇銭、ライスカレー三〇銭という形で、まず宝塚において実現された。
少女歌劇は初めの八年間は年間四回の公演であったが、大正十一年より年八回に、十四年からは一二回公演になった。新温泉入場者数は、大正三年には約二四万人であったが、以後漸次増加した。明治末年に計画され、大正初期に始まった新温泉の余興は、大正五年八月十五日に初めておこなわれた会社主催の宝塚花火大会に景気づけられながら、その内容の低迷期を乗り切り、昭和の初年には小林一三のいわゆる国民劇の新しい型が実現して、レビューの舞台に、すみれの花がその歌の旋律とともに咲きそろったのである。会社の名称は大正七年に阪神急行電鉄株式会社と改められ、同十年九月二日には西宮北口―宝塚間の西宝線が開通したこともあって、通称阪急の宝塚は、娯楽設備がととのった阪神間の家族的レクリエーションの場として広く知られるに至った。