初期の栄町と消防組

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明治三十年末阪鶴鉄道宝塚駅が開設されてからは、武庫川右岸の温泉へ行く人々は、駅前の石畳の道をまっすぐに南西方向へ下り、左へ折れてしばらく歩き右折して宝来橋を渡った。駅前には茶店や旅館角屋が店を構え、食道楽という食堂や焼いも屋ができた。少し下った所に蓬莱館という芝居小屋があり、巡業の劇団が芝居を上演していたが、これは戦後まであった。その付近に掘井という時計店があり、このあたりには、いわゆる一膳飯屋が何軒かできた。さらに南へ下り左に折れると、寿(す)し屋・八百屋・呉服屋やまねきという料理屋・西野という行商の呉服屋などがあった。また製氷所もできた。三〇年代には湯元を中心として良元村側の発展がいちじるしかったが、それに続いて小浜村栄町の市街地化が進んだ。
 明治四十三、四年ごろの栄町は戸数約五〇戸、約二〇〇人の街となっていたが、明治四十四年秋、駅前でゆで栗を売っていた家から出火し、四、五軒が全焼するという当時としては大きな火災があり、栄町の人々はバケツリレーなどでようやく消火した。このことが契機となって、料理業橋本屋の主人北幸次郎が発起し、同年十一月私設「栄町消防組」がつくられ、北が初代組頭となった。組員は約五〇名で、そのうち約半数は、手伝職・大工・左官などの職人衆であった。手押ポンプを購入し、小浜村はもちろん、良元村や塩瀬村(西宮市)にまで出動して活発に活動したが、喧嘩(けんか)の方も盛んで町内の喧嘩は消防組の者が起こすことが多く、幹部や同僚が仲裁することしばしばであったという。
 明治四十三年三月十日箕有電鉄が営業を始め、新たな宝塚駅に電車が到着した。そのプラットフォームは線路の山側にあり、電車を降りた人々は駅の西側をまわって道に出た。同年五月一日大理石の新温泉が開業したが、この温泉に行く人も同じ道を通り、橋を渡らずに左岸土手下の道に出た。新温泉は土手の内側の河原を埋立てた約五〇〇〇坪の土地に建っていたが、その手前に赤壁平家建の福亭旅館があり、その近くにうどん・そば・氷あずき等を売るはなやという店があった。その前の堤防や、堤外のいま動物園のあるあたりは、草ぼうぼうの荒地で、狐(きつね)がいたという。