小浜村もしばしば水害を被った。明治二十九年八月三十一日の洪水による被害は甚大であった。武庫川をはじめ諸川の堤防は大破し、多数の橋梁が流失した。応急の復旧工事は各区限りでおこなわれたが、三十年になって小浜村会は、「武庫川堤防復旧工事村受負願ノ件」を議決した。県費支弁復旧工事がおこなわれる前の、三十年九月三十日にはふたたび洪水に見舞われた。小浜村のうち見佐の土地はこの時「全地流失砂漠トナリ」、また同村の川面・安倉・米谷でも田畑の流失が多く、その面積は三四町七反八畝一二歩に及んだ。郡長・郡吏、県知事・県参事会員・県会議員等が数回にわたり実地検分をおこなったが、県費支弁による復旧工事はなかった。
翌三十一年小浜村会は、「川面・安倉武庫川堤防復旧工事村受負損益負担方法」その他二件を議決したが、三十一年中は工事の許可がなかった。三十二年は「近年無比の水害」と記されるほどで、武庫川の出水が数度あり、また安倉では天王寺川の出水によって池ノ島集落付近が再三にわたり被害を受けた。小浜村会は六月十二日、天王寺川堤防急破復旧工事補助稟請(りんせい)および安倉の西田新太郎・米谷の総代池内吉三郎の寄附願につき議決し、ついで古小浜川および荒神川復旧工事についても、川面の総代北菊松の寄附願とともに議決した。六月二十三日には「川面村所属武庫川堤防急破復旧工事村受負及稟請」を議決し、七月二十四日および八月十九日には天王寺川の復旧工事補助稟請を議決した。
三十二年七月一日になって、「安倉村外二カ村所属県費補助復旧工事」が許可され、川面区関係工事請負金として川面区関係分三六八円、安倉区関係分六六円の寄附があったので、それぞれの区長北菊松・西田新太郎および最寄り地主総代中西延次郎等に事務をとらせ工事がおこなわれた。また天王寺川・荒神川の工事も許可あるごとに関係区長に事務をまかせ工事が完了した。
三十五年八月十一日には、またまた天王寺川の安倉字池ノ島付近の堤防が大破し、武庫川堤防も危うかったが大破には至らなかった。その後も天王寺川および武庫川の両岸は、出水により危機に瀕することがしばしばであった。
このようなとき、すでに右に見たように明治二十二年に成立した近代的地方自治体としての小浜村はなお財政的に無力であり、村民が自らの生産と生活を洪水から守るためには、旧村単位区の資金と労力とによるほかはなかった。各区総代の寄附は、旧村すなわち大字の協議費からのものであった。