村の財政は教育費の増大に加えて伝染病対策に衛生費が増大した。明治二十六年には赤痢(せきり)病が小浜村全村に流行し、事務所を開設して日夜予防消毒に努力した。また牛疫も発生した。二十八年は米谷に虎列刺(コレラ)が発生した。二十九年にも、回帰熱などの伝染病患者が多く出たが、避病院が狭く収容しきれず、やむを得ず寺院を借り受け、一時隔離して治療した。そのため死亡者が少なかったという。
この年の患者数は赤痢病二人、腸窒扶斯(ちょうチフス)九人(死亡二人)、回帰熱八人(死亡一人)であった。報告の救助の項に、「伝染病為救助必要多ク出来ルモ有限ノ村費ニシテ支払ニ不堪依テ一時有志ヲシテ各大字ヨリ夫々救助ノ道ヲ設ケ救助アリシヲ以テ本村支出ハ弐拾九年十二月迄ニハ之ヲ施行セス」と。明治二十八年に二一六円をかけた四棟四四坪の避病院は狭いので、小浜村会は増築工事を議決した。
三十年の一月小浜に実布的利亜(ジフテリア)、同八月米谷および山本に赤痢、九月安倉に腸窒扶斯、米谷に疑似虎列刺が発生し二名が死亡した。伝染病が発生すると避病院に入院させ、患者の家の付近を消毒した。この年になり前年の伝染病その他の事項に対し村税を以て、七円を二人、六円を一人、三円を一人に支給した。
国府校の校医山崎鎌蔵の報告では、三十二年に児童にトラホームが発見され、三十三年には患者増加し、三十五年には蔓延(まんえん)した。村医山中良和の報告によれば、この年また四人の虎列刺患者が発生した。赤痢や腸窒扶斯などはほとんど毎年発生していたので、三十二年に小浜村会は伝染病予防委員事務章程を制定し施行した。またこのころ校医は、学童に「腺病(せんびよう)性ノ者非常ニ多ク」、その原因を栄養不良であると指摘している。
明治四十一年にはペストが神戸市・西宮町・津名郡由良町(洲本市)に流行したが、長尾村にも患者が一人発生した。大正七年にいたり、それまでは体験しなかったスペイン風邪が流行し、良元・長尾などの小学校は十一月五日から一週間休校し、長尾ではさらに十三日から五日間休校した。『兵庫県警察史』によれば、この流行性感冒は南アフリカ・南北アメリカ・マライ半島に流行していたスパニッシュ・インフルエンザと同じで、内務省は各府県に対して万全な防疫対策を命じたが、神戸・阪神間を中心に大流行し、大正七、八、九年の三ヵ年間の神戸市における罹患者総数は七万六九〇二人に達し、そのうち不幸にも三五五六人が死亡した。
宝塚市域については記録がないが、清澄寺(清荒神)本堂手前に「大正八九年流行感冒病死者群霊」の石碑があり、犠牲者を弔っている。