村の区としてのむら

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明治二十二年に小浜村が成立して後、安倉・小浜・米谷・川面の各むらは大字となり総代をおいたが、二十九年にはこれらを廃止し「毎大字ヲ一区域トシ各区々長及代理者各壱人ヲ置」くことになった。各区は村の行政区画であり、区長は村行政の事実上の末端機関であったが、区の実態はなお区の協議費などの裏付けを有する村落自治の組織であった。また長尾山訴訟でみたように入会権をもつ旧村の連続としての「むら」であった。あるいはまたむら総有の山林原野や道路・水路・橋梁などを有し、それらを維持するためにむら仕事をする家々の集団であった。明治二十二年の町村制施行の時も、むらの共有財産は新町村の財産とはしていないことが多いのであった。たとえば、上佐曽利は「今般町村制執行ニ付テハ右旧村ニ係ル共有財産別紙之通有之然処従来之慣行ニ依リ元上佐曽利村限リ所有之権利ヲ保存シ使用致度候間何分之御指令被成下度此段上申候也」と県知事に伺いを提出し、二十二年五月三十一日認可された。この共有財産は山林・原野・田畑・溜池合計二七町八畝であった。むらはまた生活実態においては、系譜を同じくする家の集団であり、あるいは本家分家関係や親類関係で結ばれた家々の網であり、家々の日常生活における相互扶助やコンミュニケーションにより共属意識を有し、むらは一つであるというシンボルとして村氏神をまつる社会であった。むらの一体性はそれだけではなく、水稲生産を主とし、各家の耕作する数筆ないし数十筆の小耕地が、むらのなかの多くの溝がかり田や池がかり田に散在するという条件のもとでは、水利を共同にせざるを得ないという状況にもとづくむらの家々の協力組織に現実の基礎をもっていた(余田博通著『農業村落社会の論理構造』九一ページ以下参照)。
 むらは自治体としては認められなくなったが、その共同態的な所有を基礎とする生産と生活の自治組織を無視しては、村行政もむつかしかった。
 自治組織を有する旧村の内部が、明治十年代以降いちじるしい変化をきたし、五反から二町層の自作農が両極に分化し、一方では四町ないし五町以上層の地主が生じ、他方では多数が小作農に没落したことはさきにみた。明治三十年代の村についてその状況をみることにしよう。