表58 明治40年下佐曽利耕地自小作地別面積
耕 地 | 面 積 | 比 率 | ||
---|---|---|---|---|
田 | 畑 | 田 | 畑 | |
畝 歩 | 畝 歩 | % | % | |
自作地 | 1,425.20 | 181.15 | 59.5 | 64.9 |
小作地 | 970.12 | 97.24 | 40.5 | 35.1 |
合計 | 2,396.02 | 279.09 | 100.0 | 100.0 |
『川辺郡統計書』による
表59 下佐曽利3町歩以上地主の土地所有事例
地 目 | 面 積 | 地 価 |
---|---|---|
畝 歩 | 円 | |
田 | 372.19 | 1,839.65 |
畑 | 20.16 | 68.44 |
宅 地 | 18.07 | 101.26 |
山林原野 | 1,879.25 | 55.99 |
合 計 | 2,291.07 | 2,065.34 |
〔注〕 明治29年1月27日現在
このむらの農業についてみると、二毛作以上をおこなう田地で、普通の裏作をおこなう面積は八町四反五畝、緑肥の裏作面積二町六反二畝二五歩であり、一二頭の牛により田反別二三町五反、畑七反〇畝八歩、合計二四町二反〇畝八歩を牛耕した。稲作において田植は六月十日から二十七日までに、二一町九反二畝二四歩、そのうち一六町四反八畝歩に正条植えを試みた。
生産物は表60に示すものであるが、その多くがむらのうちで消費するもので、むらの外へ商品として売るものは桑(くわ)だけであり、桑のむら内消費は明治四十三年の蚕業調査書にある五戸の飼育者のものである。またこの表にはないが、煙草(たばこ)作付反別取調表によれば、約一〇戸の小作農家が約二反歩に煙草栽培をおこなっていた。
表60 下佐曽利作物作付面積および収穫高
作 物 | 作付面積 | 収穫高 | 村内消費 |
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畝 歩 | |||
筍 | 3.00 | 10貫 | 10貫 |
茶 | 3.00 | 20斤 | 20斤 |
豌 豆 | 10.00 | 9斗 | 9斗 |
蚕 豆 | 40.00 | 42斗 | 42斗 |
馬鈴薯 | 20.00 | 500貫 | 500貫 |
桑 | 40.00 | 450貫 | 200貫 |
菜 種 | 1.00 | 4斗 | ― |
大 麦 | 150.00 | 15石 | 15石 |
裸 麦 | 950.00 | 50石 | 50石 |
小 麦 | 50.00 | 58斗 | 58斗 |
〔注〕明治41年西谷村重要物産調
以上によってみると、明治三十年から四十年ころの下佐曽利は、自給的性格の強い僅か三六戸の山間のむらであるが、その三分の一が小作農家で、むらは地主・自作・小作の階級分化を示している。また耕地所有者数は五一戸であるから、地主・小作関係は下佐曽利内部だけではなくて、他のむらにも及んでいる。下佐曽利のような小さいむらでも地主・小作関係が一般的に展開しているのである。このむらには前述のように共有地があり、後に述べるように同族組織があって、共同体的性格の強いむらと思われるが、このころのむらは土地所有の大きさと地主・小作関係をよりどころとして地主により支配されることになる。
また地主層は総代や区長のみならず、町村会議員などの要職につくことによって町村行政を支配してゆく。生産と生活の共同態的組織であるむらは、町村行政の下部組織に組入れられることによって地主層の支配下にはいったのである。