大正七年の米騒動

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大正三年(一九一八)に勃発した第一次世界大戦は、にわかに景気をもたらした。神戸および阪神間に工場が増加し、貿易・海運は異常な伸びを示し「成金」が続出した。労働者の増加とともに神戸の人口は急膨張し、大戦が終わる七年には約四〇%の増加となった。家賃は上がり物価水準は異常な上昇を示した。労働者の生活は苦しくなり賃上げの労働争議が続発した。この年七月富山県で米騒動が突発したことはよく知られている。阿部真琴著『兵庫米騒動記』は当時の各地の状況をくわしく記している。八月六日に京阪神を直撃した台風のため、輸送がとまり米価は急騰した。九日夜製塩とマッチ工場のあった印南(いんなみ)郡大塩村(姫路市)では、約五〇〇人が村役場におしかけ救済米を要求し、十日には飾磨町(姫路市)でも漁民・労働者約三〇〇人が救済を要求した。神戸市では八日の夜十時に湊川新開地に集まれというはり紙が、また十日朝には「市民大会」のはり紙が街頭に現われた。神戸市は鈴木商店から外米六〇〇石を買取り、九日から三日間新川付近の三小学校で市価六三銭の米を一九銭で廉売した。
 八月十二日夜、群衆は鈴木商店や神戸新聞社を焼打ちした。西宮でも米屋に漁民がおしかけ一升二〇銭売りを要求した。尼崎では約八〇〇人にふくれあがった群衆が次々に米屋を襲い、廉売の札を出させたり、表戸を破って乱入し米を運び出したりして巡査に逮捕されるものが相つぎ、十四日には高槻工兵隊が出動した。騒動は山間部にも影響し、十五日には有馬郡の道場川原(神戸市)で約九名の者が集団で米屋を恐喝(きょうかつ)したというので検挙される事件があった。有野村の上・下唐櫃(神戸市)では、区有財産収入分配要求事件が起こった。川辺郡六瀬村(猪名川町)木津では十八日夜農民が村社に集まり、地主で酒造家の肥爪広吉に対し米の廉売を要求する事件があった。
 各町村は恩賜金・内務省交付金と寄附金とで廉売・施米をおこなった。下佐曽利でも都会へ出た地元出身者七名から二〇五円の寄附を受け、玄米六石七斗一升、白米四石五斗一升、外米一斗八升余を廉売し、恩賜米四斗二升を下附した記録が残っている。