千苅水源池の計画

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明治四十三年(一九一〇)二月中旬のことであった。神戸市が武庫川の上流千苅溪流に水源池をつくり西谷村の波豆が水没するという計画を知って、波豆の人々は突然のことであり驚いた。
 神戸市は明治三十三年四月に布引貯水池を、同三十八年五月には烏原貯水池を完成して水道による給水を始めていたが、三十九年には水の需要が増大し時間給水もやむなき状態となった。そこで三十九年度予算において、五ヵ年計画の水道拡張調査費を要求し認められた。各地の調査により幾つかの案が検討された結果、最も水量の豊かなところとして武庫川上流千苅の地に白羽の矢が立った。四十一年四月中旬から実地調査が開始され、本水源を川辺郡玉瀬村字洗谷および有馬郡生野村字千苅(神戸市)に、予備水源を同郡生野村の鎌倉溪流と成谷溪谷ならびに導水路の中途で塩瀬村(西宮市)の尼子谷の小溪流をも引用するという計画のもとに設計され、四十二年十二月七日この水道拡張議案が市会を通過した。翌四十三年一月二十八日「神戸市水道拡張稟請」(第一次稟請)を兵庫県経由内務大臣に提出した。兵庫県は二月十六日付で水道拡張工事施行に関して、川辺・有馬・武庫郡内の関係部落二六ヵ町村に対し意見を求めた。これによって波豆は神戸市の計画をはじめて知ったのであった。