神戸市の回答

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神戸市長は四十三年四月二日付で西谷村長に対し、「根本的変更ハ出来難キ次第」、また洗谷貯水池の大部分を灌漑のため「使用スルモノト考フルトキハ千苅貯水池ハ水道ノ為メ全部ヲ要スルモノトナリ」、御希望の通り計画しても同様の結果になる。「併御陳情ノ次第充分御同情ヲ有シ候得者実施ノ場合ニ於テ可成御希望ニ近ツクヘキ目的ヲ以テ設計可致候得共今回ハ夫々議決ヲ経手続ヲ了シ来リ候ニ付此際御村内ヘ御懇諭ノ上速ニ答申アランコトヲ希望」すると回答した。この「御同情」云々のことばをみて、波豆「部落民一同聊安堵(いささかあんど)シタ」のであった。
 神戸市は四月二十日有馬郡役所における各関係者との熟議を最後に計画の出張説明を終わった。六月上旬には関係各町村会の意見が出そろったので、県はその意見をそえて主務省に進達した。しかし四十四年一月九日、第一次稟請はひとまず却下された。理由は明治四十四年度から国の補助を要請しているが、これはむつかしいということであったので、計画を変更して財源を全部起債とし、期間を一二カ年として第二次稟請を二月一日付で提出し、五月二十九日施行の認可通知をうけた。
 神戸市は四十四年二月一日、河川の水量を測るため千苅量水堰堤工事を起工し、同年十一月下旬から波豆地区内の測量を始めた。四十五年一月十四日には千苅溪流量の観測を羽束川において開始した。

図9 神戸市水源調査略図