波豆むらの対抗組織

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このような動きに対し、波豆むらは四十五年一月十五日に波豆村民総集会を開き、「神戸市水道拡張対抗委員」を選出することになり、委員長に福井幸次、副委員長に中林千太郎、委員に福本宗次郎・小池弥作・新井幾之助・乾巳之介・福井芳太郎・福井徳三郎・永瀬政輔・永瀬斌・福本良太郎・奈良平槌三郎の一〇名を選出した。一月十七日の委員会ではつぎの諸点が決定した。(一)本会を普通・特別の二種とし、普通会には村民の傍聴任意、特別会は部外秘密とする。(二)委員互選により会計主任に永瀬斌、会計補に新井幾之助を選出。(三)委員長は庶務日記を会計主任は会計簿を作り保管する。このようにして波豆の人々の組織的活動が始まったのである。
 一月十九日正副委員長両人は、先に神戸市水源池が完成していた夢野村(神戸市)へ出張し、烏原水源池ができたときの経緯を聞いて帰り、一月二十二日の総会で報告し、つぎの事項をきめた。「1、村民共同一致ヲナスヿ(事)、2、誤謬(ごびゆう)訂正ヲナスヿ及之ニ係ル入費ニ関シテハ委員ニ任スルヿ、3、来ル一月三十一日迄ニ誤謬訂正ヲナス筆数ヲ委員長ノ許ニ各戸ニ報告スルヿ」。これは各戸の所有地筆数・境界・面積を確認するためであった。対抗委員会に必要な費用は、会計主任が取替え支出をするが、その利子は年一割二歩、借入金については年一割とした。
 一月二十六日、委員以外の人々十数名が集まり、浸水地内にある村民を委員に加えることを要望し、二十八日の委員会に申出た。委員会は要望の全員を加えることは認めなかったが、福本宗次郎と永瀬政輔を交渉委員として折衝し、約一〇名の評議員を村民の互選で選出する案を立て、三月十五日の村民総会で審議したところ一〇名とすることになり、選挙して石田恒介・福本兵太郎・大西重太郎・小池音吉・中西友三郎・福永馬之祐・福本佐太郎・辰巳利市・中安卯之吉・福永太一郎が選ばれた。またこの時、名寄帳および図面を四月十日までに作ることを含め、誤謬訂正の地名番号を三十一日までに委員長へ報告すること、隣地主の証明捺印は相互におこなうこと、手数料および入費は筆数に割当てることをきめた。
 十五日の総会閉会後、委員と新任評議員が集まり規定の作成を相談し、草稿委員として永瀬斌・福本宗次郎・福井芳太郎・新井幾之助・福本良太郎の五名が選ばれた。土地の問題に関しては、三月十九日正副委員長が神戸へ出張して測量師に交渉し、二十一日には土地収用法の研究会をおこない、二十七日には村内土地有権者集会を開いて報告し、「誤謬訂正ノタメ例令田畑ニ何程ノ増歩アルモ小作米ニ関シテハ一切増減ヲ為ササル事」を申合わせ、誤謬訂正に関する契約書原案を承認した。
 三月三十一日委員長が神戸へ出張調査した事項のいくつかを記すと、土地実測は責任ある測量師により可及的速やかにおこない、他村の分までじゅうぶんに調べておくこと、村内が共同一致して対抗するためには厳格な規約をつくること、また「来ル四月頃ヨリ千苅川貯水地ノ用地買収ニ掛ル由」であった。
 村内共同一致に関しては規則草稿委員が数回の会合を重ね、四月十二日の役員会で原案を審議し、四月二十日の村民集会に提出した。しかし捺印までにいたらず、二十七日の総会で捺印を終わった。測量に関しては五月五日から、かねて交渉していた二人の技師が来村して測量し十八日帰神した。この年七月三十日に明治は終わり大正と改元されたが、その後も土地の実測と誤謬訂正・地目変換に関する実務が続行されるとともに、委員は手分けして神戸その他の各地を訪れ調査をおこなった。