神戸市は四十四年十一月下旬から大正二年十月下旬まで、前後五回にわたり波豆むらを測量したが、そのたびごとに林木・果樹を伐り倒し田畑を踏み荒し、農産物を蹂躙(じゅうりん)して住民の仕事を妨げるなど、むらの受けた損害は少なくなかった。神戸市よりは何の音沙汰もなく、委員が神戸市を訪れても、要領を得ず帰ることがたびたびであった。そこで大正二年十一月十九日付で、西谷村長龍見隆一に対しつぎのような陳情書を差しだした。
「一ハ公共ノ利益テフ事実ヲ念シ一ハ前述神戸市ヨリ西谷村長ニ対シ答申要項ヲ信シ只々部落民ノ要望タル貯水池堰堤ノ縮少耕地人家浸水区域ノ狭小ナル設計アラン事ヲ期待シ敢テ補償其他ヲ要求セサリシナリ」。最近の風説によると、神戸市は武庫川上流の水量豊富なるため、既定の設計を変更し千苅貯水池だけをつくることになったということである。また堰堤築造地である隣村有馬郡道場村のうち生野の用地については、買収示談不調で収用審査会裁決申請云々など、これらの事実によって考えると神戸市の起業の準備は相当に進捗しているようである。果してそうであるならば、波豆の懇請していた堰堤の高さは、住民の希望に近いものになったかどうかを神戸市に対して説明を求めてほしい。「今ヤ水源池云々ノタメ人心恟々トシテ自然生業ハ放慢ニ流レ積極的施設ヲ要スル農業ノ上ニモ影響スル又甚タ尠ナカラス実ニ憂慮ニ堪ヘサルモノアリ 此際波豆村ノ要望タル前記堰高ノ縮小ニシテ明ラ様ニ知ルヲ得ハ安シテ其業ニ励ムヲ得殖産上又波及スルモノ多大ナルヲ信シテ疑ハサルナリ」。この波豆むらの要望があくまでも容れられるよう取計らっていただくことを懇請する、というものであった。