「当初説明シタル設計(許可ヲ受ケタル分)
第壱期 堤頂高 川床ヨリ百二十八尺六寸
第弐期 同 同 百三十五尺二寸
今次変更設計
第一期 堤頂高 川床ヨリ百十尺
第二期 同 同 百二十尺
工事施行期未定」
神戸市は確かに大正二年十一月十七日付で、「水道拡張工事計画変更ノ件」として第五次の禀請書を提出していた。これは大きな計画変更であり、つぎのようなものであった。最初の計画の各溪流量観測の結果、千苅溪流は幸いに水量が豊富であり、かつまた貯水源容積も実測の結果同一高において予定より大きいことがわかった。そこで洗谷貯水池などの計画を廃し、千苅貯水池だけをつくることに変更した。それでも計画給水戸数は五万戸から六万四〇〇〇戸に増加したのである。貯水量などの将来計画は表61のとおりである。
表61 千苅水源池貯給水計画
計 画 | 最大貯水量 | 給水戸数 | 堰堤高 |
---|---|---|---|
億 万立方尺 | 戸 | 尺 | |
当 初 | 2,0800 | 64,000 | 110 |
次期拡張により | 3,0200 | 97,000 | 120 |
将来の拡張により | 3,9200 | 128,000 | 130 |
大正11年5月刊『神戸市水道拡張誌』より
この計画変更は、明治四十四年二月一日提出の第二次稟請が同年五月二十九日付で認可されたとき、県内務部長通牒による注意にもとづくものであった。すなわち、千苅溪流の流量を実測してそれが豊富であれば、洗谷などの比較的少量の水を集めるために多額の費用を要する貯水池は、「施設ノ要可無之被存候」ということであった。流量の観測と実測による計算の結果、洗谷その他の貯水池計画を廃しても、千苅貯水池のみで下流耕地に対する灌漑用水量をも併せ貯溜させることができ、また計画給水戸数は当初計画より一万四〇〇〇戸も増加するのであって、この計画変更は千苅貯水池についてみれば拡大への変更であった。堰堤高を一二八尺六寸から一一〇尺に下げたのは、貯水源容積が当初の予想より大なることによるのであって、波豆の人々の陳情によって計画を縮少したものではなかった。