大正五年一月一日午前八時より委員集合し、つぎの要求書を作成した。
「一、大堰補償、大畑・和田諸堰ノ減歩補償、向井山、干場、池西、湯谷池等ノ減歩補償要求書
二、水車移転料ノ意見書、菌類調書、尾島附近残田補償金要求書
三、労働者救済、社寺ノ保存金、馬場先ノ築上用地外特別補償等ノ要求書」
五日にはこの事件突発以来の総費用を計算した結果、各自収得金一〇〇〇円につき二円五〇銭の割で賦課し、なお不足のときは同率で追徴することにした。
河川堤塘の件については四月二十六日解決し、五月三十日には大井堰一二〇〇円・鎌倉堰一五〇円の補償などが決定、他の諸問題もほぼ解決に向かったが労働者救済の問題は尾を引いた。大正六年二月九日波豆の六名から兵庫県内務部長に陳情書が出た。要旨は水源池用地として波豆の田地二一町・畑二町・山林原野七五町が収用され土地が減少したため、労働者は生業を失い生活に窮している。大正三年より五年までの間にたびたび労働者救済を神戸市へ歎願したが、法規上明文なき労働者の救済は不可能ということで放置された。しかるに地主は買収測量のさい、不用道路溝渠等その他の官有地を田地に差込み多大の利を得ている。これらの事を御取調べの上、労働者の救済を歎願する、という内容である。
さらに同年七月五日には西谷村長宛、波豆の一四名よりつぎの陳情書が差出された。本県内務部長へ救済方陳情したところ、当時の区長および代理者の世話により労働者六名中へ一二〇円をいただいた。その時の約束として官有地差込より得たる金額の内から追って相当の金額を渡すから、本県に提出した陳情書は取下げよとのことで、両氏に労働者六名の実印を渡し取下げ方について然るべく御取計らいあるよう一任した。しかるに数カ月を経た今日何らの沙汰もない。先の六名以外に新たに六名の者も生活が苦しくなったので、地主が官有地を民有地へ差込んで得た五七〇〇円余の内から救済金を出すように申入れたところ、申合規約委員長はその五分の一を給与すると約束した。その後一カ月以上経過したが何らの沙汰もなく誠意がない。地主はなお大井堰の補償金も地主だけで分配して、大井堰に従来深き因縁を有していたわれわれには厘毛の分配もない。以上のしだいを了察されて五七〇〇円の六分、三四二〇円を救済金として西谷村より御恵に預かりたいという内容である。この結末はわからない。