むらの要求

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このようにして訴えた相継ぐ要求はつぎのようなものであった。(一)両側に欄干のある完全なコンクリート橋をつくること、(二)周囲の道路をつくること、(三)溝渠敷を西谷村より払下げを受けること、(四)大畑・和田堰・溜池・水車などの補償をすること、(五)、貯水池周囲の雑木無償払下げ、(六)八幡神社境内馬場先参詣道を付替えること、(七)神戸市傭人として五〇歳以上二名、四〇歳以上四名計六名の男子を採用すること、(八)神戸市の測量・補償・契約を担当する現在の吏員は土地所有者の権利を没却するものであるから、更迭(こうてつ)することなどであった。
 これらの問題に関する交渉については、神戸市側は巧妙になったようであり、波豆はほぼ前回と同様の態勢で臨んだが、むら全体がすでに疲労していた。「大正十五年四月起 水道ニ関スル諸書類綴」の記述はふじゅうぶんでかつ乱れており、経過を前回のように追跡することができない。
 昭和三年十一月一日には千苅貯水池構内に工営所が設置された。十二月に買収価格が発表され、その後の処理を福井英造・小池弥作・永瀬政輔に委任することになった。十二月二十日に移転家屋関係者会合に集まる者一九名で、六名の者が値上げを主張したが、委任を受けた者の一人は、「皆が一致シテ強硬ニ増額運動ヲナスナラハ御附合ヲシマスカ過日ノ委任ハ御免ヲ蒙リタイ以上私ハ市ニ交渉ノ余地ナク又私ハ交渉ヲヨウセナイノテアリマス」と述べ、他の二人も「氏カ辞退サレルナラハ私モ無論御断リシタイ」と発言した。そこで「最近四囲ノ状況ヨリ考エテ一致団結ハ至難テアリマスカノ様ニ思ヒマス或ハ各個人/\ニ単独ノ行動ヲスルヨリ外ナイテハアリマスマイカ」という者もあったが、前区長は「私ハ昨日三氏ニ委任シマシタカ先程来福井氏ノ話ヲ聞キマストヤムヲ得ナイト思イマス応スル事ト致シタイト存シマス」と述べ、委任状をもとにもどし結局熟慮することになった。このように波豆が前回に示した団結と運動のリーダーシップはすでに老化していたのである。