阪急沿線の住宅地開発

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宝塚における明治期の新しい街は湯の街であり、大正期の新しい街は少女歌劇とパラダイスの街であったが、昭和初期の新しい街は住宅街である。大正七年(一九一八)に社名を阪神急行電鉄株式会社と変更したいわゆる阪急の沿線住宅街は、同電鉄による住宅地の開発によって形成された所が多い。同社は箕面有馬電気軌道株式会社として創立された明治四十年(一九〇七)に、沿線各地に二五万坪の土地を買収しており、同四十二年三月には池田室町に二万七〇〇〇坪を買収し、同四十三年六月一区画一〇〇坪二階建て住宅の月賦販売を始めたが、これは関西で最初の企画であった。同四十四年には桜井における五万五〇〇〇坪、翌四十五年には池田(池田市)に一万五〇〇〇坪、服部に一万三〇〇〇坪、大正三年には豊中(豊中市)の五万坪、同八年には箕面、同十年は岡本(神戸市)と順次開かれていった。
 大正九年に神戸線が、翌十年には西宮北口・宝塚間の西宝線が開通して、この沿線にも住宅地が漸次形成されていった。西宝線開通後の最初の住宅地開設は、大正十二年甲東園の一万坪であり、同十三年には仁川に四万四〇〇〇坪の住宅地が開かれた。その後昭和二十年までの宝塚市域における住宅地開設は、昭和九年の売布四〇〇〇坪、翌十年の仁川高台一万六〇〇〇坪、十一年の雲雀丘二万一〇〇〇坪、十二年の仁川一万坪、十八年の宝塚南口三〇〇〇坪などである。

図10 阪急沿線別住宅地増加図
渡辺久雄「宝塚市における住宅地域の形成」(関西学院社会学第2輯1956所収)より