武庫川の改修

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しかしながら、住宅地が形成されるためには、その条件が整備されることが必要であった。六甲連山の東端における砂防工事が、明治二十八年から始まったことは第二章第六節で述べた。同三十五年には県会において治山治水工事第一次継続事業武庫川関係分総工費として一三万四四一八円が議決された。その工事が終わって、大正五年から進められた第二次継続事業は、昭和八年に完了した。
 太多田川や逆瀬川・支多々川から流入する山の砂が堆積して武庫川は、河床が高くなり、逆瀬川の合流点付近から、東海道線鉄道橋までの間は、水量が増大した時、河水が護岸を破壊し堤防を破り、沿岸の村落は水害をうけることがしばしばあった。とりわけ仁川合流点までは、河水が東西に氾濫して河幅もひろがり、流路が乱れて一定せず、堤防を完全に築くこともできない状態であった。
 六甲山および太多田川砂防工事が進捗するにつれて、砂礫の流出がいちじるしく減少し、河床が低下する傾向を見せ始めた。神戸・大阪をつなぐ阪神国道の改修が決定し、橋梁が架設されることになってからは、鉄道橋より下流の河川改修工事を急ぐ必要が生じた。河床の低下傾向はそれを可能としたのであった。
 この工事の許可願が民間より多数出たので、工事を私人に託すか県が施工するかが、臨時県会で問題とされ、大正八年十月県が直接におこなうことに決し、同九年度より二カ年間の継続事業で開始されたが、一カ年延長となり、大正十二年三月竣工した。引続き鉄道橋より逆瀬川合流点までの延長二里(約八キロメートル)の区間を第二期改修工事としておこなうことになった。

写真163 武庫川右岸制水横堤の完成
第3号の頭部「武庫川改修工事概要」より


 第二期工事区間のうち仁川合流点までは第一期工事と同じ工法でよいが、それより上流逆瀬川合流点にいたる区間は特別の計画を必要とした。すなわち、新堤を直ちに河床に築造し河幅を画一化することは危険であるため、まず「制水横堤」を設け流路の統一をはかり、既設堤防を修補して洪水の氾濫を防ぐことにした。制水横堤は仁川・逆瀬両川合流点間に、一二〇間(約二二〇メートル)ないし一八〇間毎に、左右両岸相対する形で三〇個(完成時は二九個)を設ける計画であった。
 大正十二年九月、鉄道橋より甲武橋間の護岸工事を開始し、同十四年一月には甲武橋仁川間の築堤工事に着手し、ついで逆瀬川合流点付近までの制水横堤および床固工事にかかり、主要工事は昭和二年末に完成した。付帯工事として施行された伊孑志・小林・蔵人共用樋門は大正十五年六月に、同排水樋門は同年十二月に竣工した。これらの樋門の改築にあたり、その費用は関係井組の負担とし、計画・設計・監督・施行は各井組の依頼により県がおこなった。また昆陽・百間両樋門の改築は昭和二年一月から始め、約三カ月後に完成した。
 第二期工事は当初工事予算総額一八〇万円、大正十二年度より四カ年間継続事業として内務大臣の認可を得たが、大正十四年二月寄附金一万四〇〇〇円を予算に繰入れ総額一八一万四〇〇〇円とし、県財政と工事施行上の都合によって一カ年間延長し、昭和二年に工事を完了した。
 工事に要した面積は、堤内九九一七坪、堤外八九六一坪、計一万八八七八坪で、そのうち田七二五九坪、畑二一一一坪、宅地二〇坪、山林原野其他九四八八坪であった。堤外用地は全部が寄附で、後に堤外地の廃川地処分をおこなったとき、若干の代地を交付した。その後地主と住宅会社とが個々に護岸工事をおこない、これを埋立てた。そのうち四万坪は時局を反映して大企業の工場敷地となり、ここに昭和ベアリング製造株式会社(後に東洋ベアリング製造株式会社に合併)が進出してきた。
 武庫川改修工事は、失業者救済の目的をも有していたので、第二期工事も主として人力を用い、出役人夫総延数五九万二九〇〇人で一日平均出役人数は三七四人であり、そのうち主要な仕事であった掘削運搬は全部人力で、その就業人夫延数は三五万余人であった。工事は、第一期工事に使用した土運搬車・軌条その他必要な機械器具を運んで使用した。工事の区域を四工区に分ち、下流部より上流部へと工事が進められたが、第四工区で終わった。したがってここで働いた人々のうち、竣工後も良元村に滞留する者があった。

写真164 武庫川逆瀬川合流付近の工事材料製作所
「武庫川改修工事概要」より