平塚嘉右衛門は大正十五年三月、逆瀬川沿いの土地を埋立て住宅地とする目的で、幹流武庫川支流逆瀬川通の公有水面二万一四五三坪の埋立免許願を出している。その場所は良元村小林の北畑四八〇一坪、野上六二九八坪、西山四八三八坪、同村伊孑志の逆瀬二五五〇坪、庚申塚二九六六坪であり、総工費は一〇万四四〇四円九一銭の見積りであった。
嘉右衛門はまた、昭和二年八月に宝塚温泉株式会社社長として、公有水面埋立願を出した。民有地の保護ならびに宅地の造成を目的とし、場所は宝塚・伊孑志の武庫山七六九番の一より逆瀬八二一番の一、合計六三筆の地先、武庫川通り右岸水面一万二二八八坪七合四勺で、内訳は護岸敷地で国に帰属するもの一一〇五坪四合六勺、民有に帰属するもの一万〇一八三坪二合八勺という計画であった。これは逆瀬川河口左岸より字武庫川・字月見山・宝塚字湯本を経て宝来橋上までのきわめて広範囲の計画であったが、訂正を命じられた。新たな計画は、字月地三番より字逆瀬三三六番の一七まで合計五四筆地先で、武庫川通り右岸水面六三二八坪〇六勺四才、内訳護岸敷地で国に帰属七三五坪六合六勺四才、民有帰属五五九二坪四合と縮少したものであり、県は同三年一月二十三日に受け取っている。昭和三年五月二十九日には逆瀬川武庫川合流点の逆瀬川改修工事の着手届を提出し、約九万円の費用を投じ翌四年三月三十一日に完成した。また昭和三年六月九日付公有水面埋立願は、湯本三番地先より同八番地先まで合計四筆の地先であり、右岸水面一九八坪五合六勺、そのうち国に帰属するもの五五坪七合五勺、民有帰属一四二坪八合一勺、工費一万六九八六円四四銭という計画であった。
このようにして、公有水面埋立による所有地の増加がはかられたのである。