温泉付貸別荘と住宅地

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平塚が所有地の分譲を始めた時期は明確でないが、平塚土地経営所として初めて分譲したのは大正八年であったという。彼は大正六年に、小佐治米太郎所有の旧温泉全部を譲り受け、株式会社宝塚温泉の代表取締役となっていた。この温泉を湯元より中洲まで引いて浴場を建設し、中洲温泉として営業を始めた。またこの付近に家屋を建て、中洲楽園温泉付貸別荘とした。「宝塚本温泉」とともに広告の設置願を警察に提出し、大正十二年二月五日に許可されている。
 昭和四年末か五年初めには、良元村伊孑志の逆瀬川と支多々川(小逆瀬川)との間の土地を、「温泉住宅地、宝塚中洲荘園」として売出した。この広告には、俗称中洲楽園と称する区画に中洲温泉・中洲クラブ水明館中洲別館・食堂・宝塚会館が図示され、また逆瀬川沿い左岸の地は工事中と記されている。株式会社宝塚会館は資本金二〇万円、昭和四年十二月二十四日の設立で、翌五年八月三日にダンスホールを開館した。
 リーフレットに記されている売出し条件はつぎのようなものであった。すなわち、五〇〇〇坪を限り一坪二〇円より四〇円まで、一区画五〇坪以上分譲、特典(一)建物付の敷地は土地売価の五歩引とする、(二)土地買受の日より一カ年以内に住宅建築し御住居の方には、土地売価の三歩を割戻す、(三)右二項の場合には、さらに御家族五名様まで中洲温泉定期入浴券一カ年分を贈呈する、という温泉地にふさわしいものであった。このとき最初に成立したと思われる分譲契約書は、昭和五年二月十日付になっている。
 その後この中洲は、「宝塚中洲荘園」あるいは「中洲荘」として分譲された。また昭和十一、十二年ころ、大西土地拓殖株式会社はこれを「宝塚湯本住宅地、新小田原郷」と称して、分譲した。

図11 中洲荘園分譲図


 しかしながら、分譲地に直ちに住宅が建てられたわけではない。家屋が建築されたのは、明治四十三年に一戸、大正九年に一戸で、その他はすべて昭和になってからであり、昭和元年から十九年まで約三九戸四四・三%(表65)、同二十年以降が四三戸四八・九%である。宝塚市の良元地区における最も早い時期の分譲住宅地である庚申塚をみることによって、宝塚の良元地区に郊外住宅街が現われるのは昭和初期ということができる。
 

表65 庚申塚の住宅建築年次別戸数

年 次戸数
 戸
昭和62
  76
  91
  105
  112
  128
  132
  144
  151
  162
  176
合計39

〔注〕昭和30年7月調査,渡辺久雄前掲論文より