仁川住宅地の形成

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仁川沿いの土地が住宅地として形成されるのも昭和初期である。仁川と小仁川の改修に伴い住宅地がしだいに造成されていった。良元村鹿塩字桝塚、蔵人字仁川および字仁川辰の区域である。また鹿塩字大原・南山畑・高丸・狸谷の区域は仁川台地につらなる傾斜地で、これらの両区域一帯は大正の末期まではまったく住宅がなかったところである。
 大正十年(一九二一)には、小林の平林寺や鹿塩の熊野神社境内を横切って西宝線が開通したが、桝塚も二分されて仁川駅ができた。仁川両岸の改修工事によって、旧堤防あとに造成された住宅地は、大正十三年に日本住宅株式会社の経営地として分譲された。仁川住宅地に電灯がついたのは、同年六月十四日であった。
 仁川駅から西の桝塚・大原・高丸・狸谷(たぬきだに)・南山畑の宅地に住宅が建築され、住宅地化するのは昭和二年以降である。これらの各字に順次住宅が建築され、人々が来住した状況を表66にしめした。
 

表66 昭和初期仁川駅西部住宅地年次別来住戸数

年次桝塚大原狸谷高丸南山畑
昭和2213
  3112
  433
  5112
  6314
  7213
  811114
  911
  1022
  11426
  121113
  1344
  142316
  15325
合計251327148

〔注〕昭和33年5月調査,渡辺久雄「住宅地城の研究」(関西学院社会学第4輯1958年所収)より