昭和初期における住宅地分譲は、大阪市の村上商店土地部が当店受託地として分譲しており、その多くは平塚の所有地であった。
昭和五年十月花屋敷第一回一万坪を売出し、同年十一月同所第二回八〇〇〇坪、同年十二月仁川百合の荘六〇〇〇坪、昭和六年二月仁川旭ケ丘六〇〇〇坪、同年三月宝塚山荘五〇〇〇坪、同年四月南花屋敷第三回八〇〇〇坪、同年五月宝塚御殿山一万坪、同年六月宝塚長寿ケ丘一万坪、ついで西宮市域であるが、水道路西側部分の仁川百合野荘園、昭和七年には宝塚長寿ケ丘一万五〇〇〇坪を売出した。
なお、分譲の時期が明確でない平塚土地経営所の分譲地はつぎのとおりである。阪急仁川清風荘(仁川駅より下流の川沿い)、仁川宝来園(仁川と小仁川合流点より上、上流は翁橋を経て宝来橋の上の百合野の住宅地の境までの川沿い)、宝塚寿楽荘・旭ケ丘(小逆瀬川より北)、宝塚中洲荘(水道・瓦斯・下水完備)、宝塚阪急逆瀬川住宅地(逆瀬川駅より上流川沿い、駅より下流沿いの部分には中洲荘の範囲と重複した部分あり)。