宝塚ホテルとゴルフ倶楽部

331 ~ 332 / 620ページ
西宮から良元村を南北に貫いて宝塚に至る西宝線が開通し、大正十一年以降は宝塚南口駅が宝塚新・旧温泉への阪神間からの来客の玄関口となった。それまでは西宮から小林まで乗合馬車が通っており、歌劇場への来客は小林駅の付近から歩いたという。その後、西宮の葛馬市松が、西宮東口・宝塚間を走る葛馬自動車部を開設したのが大正七年で、フォードT型六人乗りを二台購入して乗合自動車業を始めた。この区間の運賃は五十銭であったが、結構盛業であったといわれる。しかし西宝線・今津線の開通によって客足が落ちてしまったとのことである。
 宝塚南口の駅前に大正十五年五月十四日、洋館五階建ての宝塚ホテルが完成した。これは当時良元村開発の先頭に立っていた平塚嘉右衛門と阪急電鉄との共同出資により設立されたことはさきに述べたが、同年八月七日このホテルの五階に宝塚倶楽部という社交団体が生まれた。阪神急行電鉄株式会社の取締役上田寧が理事長となり、会員の入会金は三〇円、会費年額一二円で、発足時にはすでに三〇〇名の会員を有し、九月には四七九名に増加した。囲碁・将棋・撞球(どうきゅう)などの娯楽設備や屋外ではテニスコート・弓道場などを利用でき、阪神間に在住する知名人の友好の場となった。大正十五年九月二日、宝塚倶楽部のなかに宝塚ゴルフ倶楽部が生まれた。工事中の九ホールズのうち三ホールズができたので十月二日に開場した。日本で第一六番目のゴルフリンクスである。昭和三年四月二十日宝塚カンツリー倶楽部と改称、四年には婦人の入会者もあった。場内の谷にはつり橋をかけてコースを連絡した。もとの甘香園のミカン畑や、芝生に人糞と馬糞をまくため肥壺をコースに二、三カ所設けたので、ゴルファーたちは鼻をつまんでゴルフをするなど、初期の苦心があった。八月に始めて五人の女子キャディを採用し、一着三円五〇銭の洋服を支給し、日給八〇銭とした。
 昭和十四年七月になって国内徴用令が発せられ、人手不足をきたし、地元良元小学校からも高等科生がキャディ(一五歳以下で一ラウンド三五銭の収入)に来なくなったので、出征軍人遺家族や婦人に応援を求めた。十五年には節米の厳命で、直営のクラブハウスではライスものはいっさい停止ということになり、食料・飲料・調味料・燃料等が窮屈になったので、宝塚料理業組合に加入したり、良元村長に対し年間一二〇〇斤(一斤は六〇〇グラム)の砂糖の配給を申請したりした。しかし九月一日にはゴルフ自粛の通達があり、三〇歳未満の入会は差止めとなった。